歳のせいか、大昔の些細なことを思い出すことが多い。
あの頃ー。…
Y君は、大都会の真ん中にありながら、先代まで農家をやっていたと言う、古い大きな家の「離れ小屋」を格安で借りていた。
元の納屋に簡単に手を加えて住めるようにした小屋のような平家だった。便所はあったが、風呂などあるはずもなかった。すぐ裏にイチョウの大木があって、晩秋になると銀杏と汲み取り便所の匂いが合わさった、えもいわれぬカオリに鼻がもげそうになった。
表玄関を使わず、朽ち果てた裏木戸の、ちょっとわかりにくいところに付いている閂を外せば、昼夜問わず出入りが出来た。
御誂え向きに都合の良い下宿だった。
程なく、当然のように我々田舎者貧乏学生どもの格好の「溜まり場」と化していた。
さて、Y君の故郷は青森であった。
時折、実家からさまざまな救援物資が届く。
その中に「スズコ」と言う、ほぐす前のイクラを醤油漬けにして軽く干したような物資があった。
色味は、今のマツダ車の赤に似た、光沢のあるくすんだ赤だ。
これが旨みの強い塩辛さで、「メンバー」のG君の新潟の実家より到来する救援米にも、偶々カネに余裕のある者によって持ち込まれる酒にも、実によく合ったものだ。
旭川出身のM君の実家からの「ホッケの干物」のデカさには驚いた。「北の家族」と言う居酒屋チェーンで出していたホッケの5倍の大きさだった。
このMは、赤坂の韓国クラブで弾き語りのバイトをしていたのだが、別の意味で一杯食わされたことがある。
「俺の新曲が出来たので聴いてくれ。」
と言うので聴いてみると、小気味の良いビートの効いた素晴らしい曲だった!
コイツはいつか絶対にスターになると心から絶賛したら、何のことはない、佐野元春の新曲だった!
すぐバレる嘘はつくな、Mよ。
とは言え、何十年ぶりかでまた担がれてみたい気もする。Mの、ホテルのエレベーターの中で鳴っているような静かで優美なギターが好きだった。
この日本全国からの乱痴気集団のおかげで、私はちょっとしたポリグロット話者に成り得た。
Yの青森南部スズコ語。
Mの北海へっぺ語。
Tとその麻雀仲間からのもえりゃあ名古屋語。
Oからのせんない山口語。
Nからベランメエ浅草六区語。
Hとそのだっぺ一味からの茨城語。
H先輩のコラ貴様博多語。
U先輩の語尾伸ばし富山語。
まあ、これだけ話せれば充分だろう。
知らんけど。…
あと、「メンバー」ではなかったが、音声学のS教授のコカコーラ語。これは全くダメだった。
私の口に指を突っ込んでまで舌の位置を教えてくださったり、散々テープを聞かせてくださったりしたが、当時はフサフサだった私の髪の毛にしつこいヘッドホンの跡が付いただけだった。卒業後、もぐり込んだ会社でコカコーラ国やカレー亭国、カンガルー王国の店をたらい回しにされたのは、何かの罰ゲームだったのだろう。
ところで、当時どこにそんな金があったのか不思議でしょうがないのだが、しょっちゅう大酒を呑んでいた。
ただ、薄っすら思い出すことがある。…
ペットボトルの無かった当時、コーラの1リットルの空瓶を一本三十円で、酒屋が買い取ってくれていた。
これを皆で手分けして、町内を何周かした上、隣町まで漁り尽くして結構な数を集めては、酒と交換したものだった。
時には酒屋の裏に回って、回収済み(要は返金済)の瓶も何本か加えて、素知らぬ顔で酒に変えたのも、思い出したついでに白状せねばなるまい。
勿論、毎回ではない。
ごく稀と時々に限りなく近い、しょっちゅうだったかもしれない気がしないでもない。
悪い奴らだ。
人の法には時効があるが、この思い出す度にチクリと胸を刺す罪には、時効は無い。
キリスト教では、これを原罪と呼ぶ(ホントか?)。
Y君と二人で、一晩に最高で一升瓶を五本空けたこともある。その後眠りもせず、何事もなかったように平然とそれぞれバイトや授業に向かう事が出来た。
今そんなことをしたら、命にかかわるだろう。
頑張っても三合で寝てしまうだろうし、酒は頑張って呑むものではないことを知って久しい。
これも随分前に知ったことだが、あの「スズコ」は青森南部語で、日本語では「スジコ」のことであった。
なんだか、昔ふくよかで美しかった恋人の「鈴子」が年老いて、骨と皮ばかりでガリガリの「筋子」に成り果ててしまったようで残念だがー
いやいや「筋子」にも、中々どうして深〜い味わいがあると最近気がついた。
いやはや、ジジイになると、思い出したり、気がついたりして、中々忙しいのだ。…
<了>
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