グラミー賞を5回受賞した世界的ミュージシャン、エルトン・ジョンの自伝的映画。監督は「ボヘミアン・ラプソディ」のデクスター・フレッチャー。1947年、レジー・ドワイトはイギリスの郊外で、厳格で家庭に無関心な父親と子供に無関心な母親との間に生まれた
14歳の少女インシアの夢は、インド最大の音楽賞のステージで歌うこと。しかし厳格な父親は娘の夢を許さず、歌うこと自体を禁止してしまう。諦めきれない彼女は、顔を隠して歌った動画をYpuTubeにアップする。その時の彼女のハンドル・ネームが「シークレット
昨夜、珍しく夫と映画を観て来ました。会社帰りの夫と待ち合わせ、六本木ヒルズで「ライオンキング」を。子供の頃、手塚治虫の「ジャングル大帝」が好きだった私としては思う所あるのですがディズニーのアニメにもNYのミュージカルにも感動しているので、やは
第一次世界大戦の終結前後、好戦的な上官プラデルの悪事に気がついて生き埋めにされたアルベール。彼を地中から救い出したエドゥアールは、顔の下半分を吹き飛ばされてしまう。パリに戻った二人を待ち受けていたのは、帰還兵に冷たい世間だった。銀行家の御曹
干ばつ、飢餓、貧困にさらされたアフリカの小国マラウイで少年が廃材から風力発電機を作ることによって村を救った実話を基にした映画。マラウイという国がそもそも何処にあるのかも知りませんでした。アフリカの南東部、モザンビークやタンザニアの近くです。
1873年(明治6年)、越後長岡藩の家老の家に生まれた杉本鉞子(えつこ)は武士の娘として厳格に育てられ、結婚によりアメリカに住むようになっても「武士の娘」としての矜持を失うことはなかった。これは、大正時代に米国の雑誌に英文で連載された彼女の自叙
先のインド映画についての感想をSNSにアップしたら色々なコメントが寄せられました。インドに詳しい人によると、サリーの着方で出身階層、教養、地方が分かるのだそうです。またこの映画の監修の松岡環氏の説明によると、インドの人たちは初対面の人に会った
農村の貧しい家の出身のラトナは19歳で夫に先立たれ、メイドとしてムンバイに来る。建設会社の御曹司アシュヴィンの新婚家庭で働く筈だったのだが結婚直前に破談になり、傷心のアシュヴィンの身の回りの世話をすることになる。雇い主とメイドの関係でしかなか
19世紀末から20世紀初頭、「ベル・エポック(良き時代)」のパリの街角を彩ったアルフォンス・ミュシャ。「アール・ヌーボー」を代表する彼のグラフィック・アート、そして後世、ミュシャのデザインに影響されたサイケデリック・アートのレコード・ジャケット
家電メーカー4社の最新機種の冷蔵庫のカタログを丹念に見て比較検討する、というモニターを引き受けました。消費者として、カタログの中のどの部分に魅かれたかとか疑問を持ったかとか詳細にレポートするというものです。モニターの性質上、具体的な名前など
一昨日の土曜日、珍しく体調を崩しました。朝から頭が痛く、身体がだるい。睡眠障害を抱える私は、寝不足ということはしょっちゅうあって、睡眠2〜3時間しか取れなかった翌日は、鈍く頭が痛いということもよくあるのです。普段はそれでもめげずに遊んでいる
先週読んだ原田マハの「リーチ先生」、些か気になる所があって実際にバーナード・リーチの日本での心情はどんなだったのかとの思いから、「バーナード・リーチ日本絵日記」を読んでみました。昭和28年、19年ぶりに日本を訪れた彼の日本滞在記。原文は英語で書
レバノンから届いた、重い映画です。ベイルートの貧民窟に暮らす、シリア難民の12歳の少年ゼイン。12歳といっても、不法移民の親が出生届を出していないので、正確な数字は分からない。つまり彼の存在は、社会的には認められていないのです。怪し気な違法ドラ
代々木上原にある東京ジャーミーに行って来ました。日本におけるイスラム教徒の最大の礼拝所であり、トルコ文化センターでもあるここのことはトルコ人の友人に以前から聞いていたのでした。こちら、1938年にロシアからの亡命タタール人のモスクとして建てられ