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2020年04月05日17:59

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80年前に消えた東京五輪は「呪われすぎたオリンピック」だった

 下記は、2020/04/05 付の 文春オンライン に寄稿した、小池 新 氏の記事です。

                記

 2020年東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まった。中止ではなく、1年後には開催されるというが、思えばこのオリンピックはスタートからトラブル続きだった。国立競技場の設計変更、エンブレム“盗作”騒ぎ、招致活動での買収疑惑と日本オリンピック委員会会長退任、マラソン・競歩の会場変更……。麻生太郎・副総理兼財務相が言った通り“呪われたオリンピック”といえるのかも。

 しかし、いまから80年前、やはり難航を極めた挙げ句、中止に追い込まれるという“呪われすぎたオリンピック”があった。そこには当時の日本と世界の事情が反映していたが、いくつかの点では現在にも通じる問題をはらんでいた。

招致決定に沸いた東京「遂に勝てり」「凱歌」

「東京オリムピック!正式決定 我等の待望実現! “東京”遂に勝てり」(東京朝日)、「果然!! 東京に凱歌 極東に翻る初の五輪旗」(東京日日)、「おゝ今ぞオリムピックは我等の手に 燦たり皇紀二千六百年 待望の聖火、来るの感激」(読売号外)――。

 1936年8月1日の新聞各紙朝刊は4年後の1940年の夏季オリンピック(当時は「オリムピック」と表記した)が東京で開催されることが、ベルリンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まったことを報じた。東京朝日の別の見出し

「日本卅(三十)六票芬蘭廿(二十)七票」にある「芬蘭」とはフィンランドのこと。東京とヘルシンキが投票で争った結果だった。

 見出し、本文に「勝てり」「凱歌」など、勝ち負けにこだわった表現が目立つ。「萬歳!!」の説明が付いた東京朝日の写真は、「文部省体育課」と「東京市案内所」の何人かが両手を上げている。「戸外球技場」「馬術競技場」「漕艇競技場」などの会場設計図も掲載。「豪壮スポーツ殿堂 二年後には実現 計画はすでになる」と東京朝日は胸を張っていた。

「東京でオリンピックを」というアイデアが生まれたのは6年前の1930年。“言い出しっぺ”は当時の永田秀次郎・東京市長だった。「紀元2600年に オリムピックを ぜひ日本で 永田市長等で主唱」。これは同年12月4日付東京朝日朝刊社会面2段の初報だ。

「来る昭和15年は神武天皇御即位紀元2600年に当たるので、同年には盛大なる種々の祝賀催しがあるはずで、早くも各方面において考慮されているが、まず明後年ロサンゼルスで開かれる国際オリムピック大会の次はドイツかスペインに決まる模様であるが、その次の大会を日本において開こうという気運が熟し、既に数日前、永田市長と山本忠興博士との会見において、この話は持ち出され、永田市長はその際、東京市が主唱してもいいと明言するに至り、もちろん、紀元2600年記念大会になるので、山本博士も非常に乗り気になっている」とある。

 他紙にも同様の記事が掲載されているので、永田が東京市担当記者に漏らし、アドバルーンを上げさせたのだろう。

「日本のスポーツ界の反応は極めて冷淡かつ消極的だった」

 山本博士とは電気工学の権威の山本忠興・早稲田大教授。同大競走部長で、1928年アムステルダムオリンピックでは選手団長を務め、当時のIOCのラツール会長とも個人的な親交があった。永田は1923年9月に起きた関東大震災のときの東京市長。7年後の1930年3月に「帝都復興祭」が盛大に行われた直後、2度目の市長に就任していた。

 橋本一夫「幻の東京オリンピック」によれば、永田は「復興祭の次が問題だ。紀元2600年の記念行事として何をやるかだ」と考えていたとき、市の秘書課員から「オリンピックはどうでしょうか」と提案されて同意。「アジア初のオリンピックを東京で開催するという壮大な構想を抱いたのである」(同書)

 だが、「永田や山本の『オリンピック招致構想』に対し、日本のスポーツ界の反応は極めて冷淡かつ消極的だった」と「幻の東京オリンピック」は書く。

 当時、スポーツの「元締め」である大日本体育協会(体協=現日本体育協会)会長の岸清一は、1924年パリオリンピックの選手団長も務めたIOC委員。だが、日本のスポーツ界の現状からみてオリンピックの開催は時期尚早と考えていた。同書によれば、側近が体協の機関誌に発表した文章で、開催に不安を抱く理由を挙げている。

「東京はヨーロッパから遠隔の地にあり、IOCが都市を決定する場合、この地理的事情が重大な障害となる恐れがある。競技場はともかくとして、多数の外国人観光客を受け入れるための宿泊施設が不足している。大会開催のためには英語、ドイツ語、フランス語などの通訳が大勢必要だが、日本では外国語に堪能な人が少なく、その確保が極めて困難である」。

体協は「オリンピック招致」に腰が重かった

 当初から大会を招請する主催都市・東京市と、運営の主体となる組織委員会の母体の体協の間に決定的な温度差があった。

 永田は友人の下村宏(海南)・東京朝日副社長に協力を依頼。下村は長年IOC委員を務める嘉納治五郎・元東京高等師範(現筑波大)校長に相談した。下村と嘉納が岸会長を説得。その説得の甲斐あって、体協は翌1931年4月の理事会で「第12回オリンピックの東京招致に努力する」ことを決議したが、その後も慎重な姿勢を崩さなかった。当の岸も1932年9月の段階でも、昭和天皇への進講で「東京に第12回の大会を持ちきたることは」「非常に困難なりと存じます」と述べている(「岸清一伝」)。

 体協は、オリンピックについては自分たちが「本家」という意識から、開催にはやる東京市などの動きを牽制して腰が重かったと思われる。

東京オリンピック招致の功労者で、返上の引導を渡した仕掛け人

 1932年7月、オリンピックに合わせてロサンゼルスで開かれたIOC総会では、1940年の大会候補地として東京を含む10都市が名乗りを上げた。その後、東京、ローマ、ヘルシンキに絞られたが、日本は前年の1931年に日本軍の謀略で始まった「満州事変」を「日本の侵略」とする国際世論から冷たい視線を浴びていたこともあり、独裁者ムソリーニ首相が強力に推進するイタリア・ローマが有力とされた。

 そんななかで、1933年10月に岸が病気で急死。後任のIOC委員に大日本バスケットボール協会(当時)会長の副島道正・伯爵が就任した。佐賀県出身の明治の元勲・副島種臣の3男でイギリス・ケンブリッジ大学を卒業。外国に知己も多かった。

「戦前のIOCは貴族や富豪が顔をそろえ『サロン的雰囲気』が濃厚だったから、その意味でも華族副島道正の委員就任はうってつけの人選といえた」(「幻の東京オリンピック」)。彼こそ、1940年東京オリンピック招致成功の功労者であり、返上の引導を渡した仕掛け人だった。

正式決定にこぎつけるも険しい道のりに

 1935年1月、副島は譲歩を求めるため、ムソリーニ首相に面会を求めた。そのとき副島はインフルエンザにかかっており、待っている間に病状が悪化して卒倒。一時は重体に陥った。そんな状態での直談判がムソリーニの心を動かしたのか、回復後の2月初めに面会した際、ローマの辞退に言及した。ノルウェーのオスロで開かれた1935年IOC総会では決定延期になったものの、ドイツのヒトラー総統の後押しもあって、ベルリンオリンピックに合わせて開かれたIOC総会で正式決定にこぎつけた。1936年8月2日付読売夕刊は「オリムピックが来る! 六百万市民の歓呼 街に溢る祝賀気分」の見出しで国民の歓迎ぶりを報じた。

 しかし、そこからは、永田らが考えていたよりはるかに険しい道のりだった。大きな難関だけでも(1)大会の理念・構想(2)国内関係者の意思の統一(3)軍部の関与(4)経費の手当て(5)メーンスタジアムの選定――などが挙げられる。どれをとっても極めて困難な問題だった。

 8月2日付東京朝日の社説は「その実力において、誠意において、かつは諸般の整備において、日本が、完全にその成果を挙げ得べき資格と信念とを認めしめたことは、わが国家国民の無限絶大な誇負でなければならない」と書いた。これに対し、社会主義者の山川均は「文藝春秋」同年9月号で「国際スポーツの明朗と不明朗」と題してオリンピックを論じている。

「人間精力の純粋な浪費であり、その追求する目的が何にもならぬという意味で完全に無価値なところにスポーツの価値があるといっていい」と規定。それが「人生にしろ社会にしろ天下国家にしろ、それらのものにとっていかに重要であり有益であり有意義であろうとも、いやしくもそういうものの考慮がひとたび入ってくると、スポーツはその瞬間から単なるスポーツではなくなってしまう」とした。

「オリンピックは国際政治の舞台」

 オリンピックをめぐる現状については「オリンピックはスポーツの舞台ではなくて、それ以上に国際政治の舞台だということが含まれている。オリンピック参加の目的は、幅跳びの広さにおいて、高跳びの高さにおいて……他国に勝つことではなくて……少なくとも勝つことだけではなくて……世界列国をして国家の実力と国民の偉大さを承認させ、国威を宣揚し、国際的地位を高めることにあるのだから、『東京オリンピックの実現にこぎつけて日本の国際的地位を高めた平和の勇士』は、例えば日本海海戦に敵艦を追い詰めて日本の国際的地位を一段と高めた戦場の勇士と本質においては違ったところはない」。現在のオリンピックにも通じる指摘だろう。

「武道精神」か「スポーツ精神」か

 IOC委員である嘉納治五郎と副島道正の間でも大会の構想で違いが目立っていた。「嘉納は東京オリンピックを国家的大事業と捉え、組織委員会も体協や東京市だけでなく、各界を網羅した構成にする必要があると主張していた。東京オリンピックは単にスポーツ競技のみの大会ではなく、日本の文化や精神を各国の人々に理解させ、国民精神の作興に役立つものでなければならぬ、というのが嘉納の信念だった」と「幻の東京オリンピック」は述べる。

 嘉納は講演や雑誌に寄稿した文章でも「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを世界のオリンピックにしたいと思った。それには自分一代で達成することができなかったら、次の時代に受け継いでもらう。長い間かかってもよいから、オリンピック精神と武道精神とを渾然と一致させたいと願ったのである」「この第12回大会を、大過なく遂行することによって、いよいよわが国運は発展することと確信しています」と強調している(「嘉納治五郎大系第8巻」)。

 これに対し「親英米派の自由主義者だった副島は、ナチスの影響が強かったベルリン大会をよしとせず、国家主義を排し、スポーツ精神に立脚した東京オリンピックを脳裏に描いていた。組織委員会も大日本体育協会が中心となって結成すべしと強調していたのである」(「幻の東京オリンピック」)。

神武東征になぞらえて聖火リレー?

 東京朝日は主要な関係者を集めた「東京オリンピック座談会」を主催。1936年11月30日付朝刊から13回続きで連載したが、副島はその中でも持論を展開している。近代オリンピックの創始者クーベルタンの「オリンピックは参加するのが目的で必ずしも勝つのが目的でない」という言葉を引用。ヒトラーが国威発揚に利用したベルリンオリンピックを批判し、「日本はこれを国家の宣伝に使いたくないと思う。私はどこまでもスポーツの精神でいきたい」と言い切っている。

 聖火リレーの問題もあった。1936年9月17日付東京朝日朝刊は「これだ!東京大会の象徴 “悠久の聖火”を翳し 日向から大リレー」の見出しの記事が載っている。

「神武天皇御東遷にならい」「皇祖発祥の地たる宮崎から東京まで1500キロの聖火大距離リレーを決行せんと、かねてより宮崎県学務課で立案中のところ、いよいよ具体案を得た」と記述。聖火を宮崎から関門海峡を経て山陽道、東海道経由で東京まで14日間で運ぶ計画。ほかにもさまざまな聖火リレーの私案が出たが、ほとんどが国内コースで、ギリシャ・オリンピアで採火して各国経由で日本に入ってくる国際コースではなかった。

 当然、IOCに反対され、最終的には1938年3月29日付東京朝日朝刊「五輪聖火空のリレー」で報じられたコースで落ち着いた。オリンピアからアテネ、シリア、バグダッド(イラク)、テヘラン(イラン)、カブール(アフガニスタン)を経てインド北部を通り、中国・新疆地区、内モンゴル経由で北京へ。そこから日本の傀儡国家「満州国」の首都・新京(現長春)を通り、朝鮮半島を南下して門司入り。山陽道、東海道で東京へ、という順路だった。

軍部の関心は「利用できるかどうか」のみだった

 組織委の担当者が陸軍参謀本部に協力を依頼したところ、応対した少佐は「面白いと思います。ただ、なるならぬは別として、ある時期までは極秘にしてください」と言ったという。「幻の東京オリンピック」は「中央アジア一帯をはじめとする広範な地域の地理や地勢、辺境における中国、ソ連など各国軍隊の配備状況を知る好機と考えたのだろう」と書いている。軍部にとっては、自分たちが利用できるかどうかにしかオリンピックに関心がなかったように思える。

 大会運営の主体となる組織委員会の結成は、嘉納の根回しが功を奏し、彼の考えを基に進められた。最大の課題は軍部の関与だった。

軍を巻き込むことは不可欠だった

 1936年12月17日付東京日日朝刊は「広義国防の観点から オリムピックを援助 陸軍の意向漸次動く」の見出しで、大会運営を所管する文部省(当時)が組織委の委員に梅津美治郎・陸軍次官の就任を要請し、体協の理事らが陸軍省新聞班の将校らと意見交換したことを報じている。梅津次官は陸軍統制派の中心人物の1人で、のちに参謀総長を務める。オリンピックを「挙国一致」で開催するためには軍部を巻き込むことが不可欠と判断したのだろう。

 その結果、12月19日に開かれた会議で梅津次官の委員就任が決定。12月20日付東京朝日朝刊には「オリンピック大会は挙国一致で立派に行う必要がある。関係者が熱望されるとあれば、その意味でお引き受けし、陸軍としても極力援助しよう」との梅津次官の談話が載っている。

重い問題としてついて回った「予算」

 さらには予算の問題もあった。メーンスタジアムと各競技会場、選手村などの施設のほか、周辺道路の整備も必要だった。「東京百年史」によれば、施設費として1213万円、道路修築費として1080万円、合計約2300万円の予算が計上された。2017年の貨幣価値に換算すると、約458億3000万円にも上る。

 東京朝日の座談会最終回で「招致段階では1500万円だった」との指摘に嘉納は「私はそれにあまり重きを置いておらぬ」と断言。「予算の取り方は将来新たに考えなければならぬ問題ではないか」と語るにとどまっている。同年12月28日付東京朝日の「東京オリムピック 予算の問題」という記事では「議会に上程される予算の形式はオリムピック補助費として文部省から提出されるが、5カ年分割500万円で、初年度124万円を計上されている」としている。1500万円は2017年換算で約298億9000万円、500万円は同99億6000万円。実際はとてもそれで収まらず、資金の手当ては重い問題としてついて回った。

#2 へ続く

戦争、会場、金、復興……幻のオリンピックが歩んだ「開催地返上」までのカウントダウン へ続く

(小池 新)

 http://www.msn.com/ja-jp/sports/tokyogorin-2020/80%e5%b9%b4%e5%89%8d%e3%81%ab%e6%b6%88%e3%81%88%e3%81%9f%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e4%ba%94%e8%bc%aa%e3%81%af%e3%80%8c%e5%91%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%99%e3%81%8e%e3%81%9f%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%94%e3%83%83%e3%82%af%e3%80%8d%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f/ar-BB12b7HU
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