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2019年11月24日18:44

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「空の神兵」の活躍も台無し!? 戦局を悪化させた陸海軍の対立

 下記は、2019.11.24 付の 「昭和天皇の87年」 です。

                        記

 第178回 連戦連勝(2)

 シンガポール陥落の3日後、昭和17年2月18日、昭和天皇は《御料馬白雪に乗御され、宮城正門二重橋鉄橋上にお出ましになる。宮城前外苑における戦捷祝賀の旗行列を御覧になり、万歳、君が代の奉唱を受けられ、御会釈を賜う。(中略)その後、皇后が皇太子(上皇さま)・成子内親王・和子内親王・厚子内親王を伴って二重橋鉄橋上にお出ましになる》(昭和天皇実録30巻34頁)

 開戦前、保守派の重臣らは対米戦争に最後まで反対していた。国民の一部にも慎重論が残っていたが、シンガポール陥落の頃には、ほとんどみられなくなったとされる。予想を上回る陸海軍の快進撃に、日本国中が早くも戦勝気分に沸いた。昭和天皇も、やや楽観的になっていたようだ。

 各地の戦況報告が、続々と昭和天皇に届く。

 3月1日《侍従武官城英一郎より、我が軍のジャバ島への上陸成功等につき奏上を受けられる》(30巻40頁)

 3月3日《軍令部総長永野修身に謁を賜い、二月二十七日から三月一日のスラバヤ・バタビヤ沖海戦の総合戦果につき奏上を受けられる》(同巻30巻42頁)

 3月8日《侍従武官横山明より、ジャバ・バンドンの蘭印軍司令官の降伏申し入れにつき奏上を受けられる》(同巻46頁)

 翌9日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一に言った。

 「余り戦果が早く挙り過ぎるよ」

 国家の破滅をも予期した開戦前の心労は、杞憂(きゆう)だったのだろうか−。この頃の昭和天皇実録には、心にゆとりのできた昭和天皇が、家族との時間を大切に過ごす様子も記されている。

 2月22日《午前、皇太子・正仁親王(常陸宮さま)・成子内親王・厚子内親王参内につき、皇后と共に奥御食堂において御昼餐を御会食になる。御食後、御一緒に映画「水筒」を御覧になる。ついで鬼ごっこにて過ごされる》(30巻37頁)

 3月25日《皇后と共に道灌堀方面を二時間にわたり御散策になる。その際、桜樹の下の草花を観察され、また土筆・ヨメナ等をお摘みになる》(同巻57頁)

                     × × ×

 もっとも、連戦連勝のかげで深刻な問題が表面化しつつあった。陸軍と海軍の対立である。お互いが戦果の功名を競うあまり、ついには足を引っ張り合うほどに関係が険悪化したのだ。

 典型的な例が、蘭印(オランダ領東インド)の油田地帯をめぐる主導権争いである。

 昭和17年2月14日、現インドネシア・スマトラ島の油田パレンバンに、陸軍第1挺進団の落下傘部隊が降り立った。部隊は蘭印軍との激戦を制して飛行場を占領。同地の油田設備も敵が破壊する前に確保する。のちに「空の神兵」の名で知られる、見事な奇襲成功だ。

 このバレンバンには、周辺の油田地帯も含め年産470万キロリットルもの石油が眠っていた。日本国内の年間石油消費量に匹敵するほどの量だ。「ガソリン一滴は血の一滴」といわれた時代、大本営が小躍りしたのは言うまでもない。

 ところが、いくら採油しても日本にはなかなか届かなかった。陸軍の再三の要請にもかかわらず、海軍が輸送船を出さないからだ。海軍は、製油施設を陸海合同で運営するなら輸送船を出そうと申し入れたが、今度は陸軍が首を縦に振らなかった。強大な米国を相手に戦争を仕掛けながら、内輪でこんな、子供じみた喧嘩をしていたのである(※1)。

 陸海軍の対立は、のちに昭和天皇が敗戦の一因にあげるほど深刻化するのだが、それは後述する。

                     × × ×

 ともあれ、昭和17年春までの日本軍は無敵だった。1月23日にニューブリテン島のラバウルを占領。3月初めにはジャワ島を攻略し、念願だった南方の資源地帯を確保する。唯一、米領フィリピンではバターン半島とコレヒドール島に立てこもる米比軍に手を焼くが、3月11日、司令官のダグラス・マッカーサーが「アイ シャル リターン(必ず戻る)」の言葉を残して同島を脱出した(※2)。

 5月6日、昭和天皇は《侍従武官山県有光よりコレヒドール島要塞の白旗掲揚につき奏上を受けられる》(30巻85頁)。

 戦勝に次ぐ戦勝。だが、楽観ムードの漂う日本に、ルーズベルトが放った一矢が冷や水を浴びせる−−。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

                        ◇

(※1) 海軍もボルネオ島の油田地帯を制圧し、管理下に置いたが、期待されたほどの産油量は得られなかった。このため日本軍が確保した油田施設の接収比率は陸軍の85%に対し、より石油が必要な海軍は15%にとどまった。燃料不足から海軍は訓練などが十分にできず、艦隊行動も制限されるなど、油田をめぐる陸海軍の対立は作戦上でも極めて深刻な悪影響を及ぼしたとされる

(※2) バターン半島の攻略戦では、いわゆる「バターン死の行進」が戦後に問題となる。降伏した米比軍将兵約7万6000人を捕虜収容所に移送する際、衰弱しているのに80キロ以上も歩かせ、7000〜1万人もの死者を出したとして、攻略軍(第14軍)司令官の本間雅晴がマニラ戦犯法廷で銃殺刑に処された。ただ、予定していたトラックが使えないなど重大な不手際はあったものの、日本軍は捕虜を生かそうとし、可能な限りの救護策をとったとする説も有力である。また、捕虜が歩かされたのは1日あたり20〜30キロほどで、日本兵にとっては何でもない距離だった。もっとも、日本軍には「捕虜になるくらいなら自害すべきだ」とする意識が強く、捕虜を恥ずべき存在として過酷に扱う傾向もみられた。結果として、先の大戦中に非人道的な戦時国際法違反が複数あったのも事実である

                        ◇

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」30巻

○大畑篤四郎著「近代の戦争〈6〉太平洋戦争〈上〉」(人物往来社)

○木戸日記研究会校訂「木戸幸一日記〈下〉」(東京大学出版会)

○袖井林二郎ほか編「マッカーサー 記録・戦後日本の原点」(日本放送出版協会)

○岩間敏著「石油で読み解く 完敗の太平洋戦争」(朝日新書)


  https://special.sankei.com/f/society/article/20191124/0001.html
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