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2019年11月19日17:38

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ユダヤ人難民が日本で大富豪になった ショール・アイゼンバーグの生涯

 下記は、2019.11.19 付の AERA dot. の記事です。

                        記

 今回は、1940年代に19歳で難民として日本に渡ってきたショール・アイゼンバーグの話をします。アイゼンバーグは日本人の妻を迎え日本で家庭を築き、戦火を生き延びました。そして、ビジネスの才覚があった彼は1960年代までに世界で最も裕福な人物の一人になります。

 アイゼンバーグは1921年、独ミュンヘンで6人きょうだいの5番目としてユダヤ系ポーランド人の家に生まれました。しかし、38年にはナチスの迫害を避けるためドイツから逃げなければなりませんでした。彼は友人と共にフランスの国境を越えようとしたのですが、友人は途中で殺されてしまいます。アイゼンバーグは逃げ続け、難民として各地を転々としていました。40年になんとか上海にたどり着き、その後日本の支配下にあったハルビンから東京に渡っていきました。

 東京では上海から持ってきたカーペットを売って生計を立てようとしていました。ある日、路上でカーペットを売っているとき、ハーマン・フロイデルスペルガーというオーストリア生まれの男性から声をかけられます。フロイデルスペルガーはウィーンなどで美術を学んだ後にインドを経て日本に来ていました。日本では裕福な実業家の肖像画家として活動していましたが、オーストリアに戻ることはありませんでした。2・26事件で暗殺された高橋是清元首相の肖像画は彼が描き、現在は日本銀行の地下室に保管されています。

 東京で出会った二人の外国人は共にドイツ語を話し、フロイデルスペルガーはアイゼンバーグを自宅に招き自分の子どものように扱いました。フロイデルスペルガー自身は20年間日本に住み、茨城県出身の日本人女性と結婚しました。両親の反対にもかかわらず彼と結婚した芯の強い女性です。彼らは東京・麻布に住み、ノブコという女の子とアリトモという男の子を育て、家では日本語だけを話しました。後に、娘のノブコはアイゼンバーグと結婚しました。

 ノブコは現在97歳となり、ロンドンで暮らしています。今年の10月、私はロンドンに行き、彼女にインタビューをしました。アイゼンバーグとの出会いについて彼女はこのように語っていました。

 「高校から帰宅すると、父とお客さんが聞いたことのない言葉で話をしていました。お客さんの靴が玄関に置かれていましたが、とても古くて汚れていたので気の毒に思い、磨いてあげました。お客さんは帰る時に自分の靴が綺麗になっていることに気づきました。玄関口に立っていた私と彼はお互いを見つめ合い、顔を赤らめました」

 娘をユダヤ人難民と結婚させるというフロイデルスペルガーの決断は単純なものではありませんでした。なぜなら彼が生まれたオーストリアは40年当時、すでにドイツの一部であり、人種差別主義のナチス政権に支配されていたのです。何年にもわたる反ユダヤ主義運動により、ドイツだけでなく他の国々のユダヤ人も迫害されて殺されました。フロイデルスペルガーは東京のドイツ大使館との接触があったにも関わらず、気にすることなく娘とユダヤ人を結婚させたのです。本当に特別な人でした。

 アイゼンバーグはフロイデルスペルガーの娘であるノブコとの結婚後も東京で暮らしていましたが、次第に激しくなる米国による空爆から逃れるため軽井沢近くの長野県御代田村(当時)に移り住みました。少ない食糧で厳しい暮らしを送り、軍のために村の人たちと共に労働に駆り出されることもありました。終戦を迎え、二人は焼け野原になった東京に戻ってきました。御徒町(東京都台東区)に小さな家を借り、当時の多くの日本人がそうであったように、生活を一から立て直しました。

 正規の教育を受けていなくてもビジネスマンとして成功できるということを、アイゼンバーグは身をもって証明しています。戦後の東京で、占領軍の将校とつながりを持ったことをきっかけに米国と日本の会社の仲介業を始めました。1950年代には韓国にビジネスを広げます。韓国の工場や様々なビジネスに投資を始めたのです。韓国だけでなく徐々に東アジア諸国にビジネスの領域を拡大していき、貿易、不動産、電気通信、銀行、エネルギーなどの幅広い分野にまたがりました。韓国では成功する前のサムスンにも融資をしています。

 また、アイゼンバーグは中国市場に参入した最初の外国人の一人です。1970年代には中国国内に複数の工場を所有しました。その後は欧州、南米、アフリカ、中東にも投資範囲を拡大します。イスラエルでも複数の化学工場を購入しています(私の父親はそのうちの一つである死海の工場に勤めていました)。彼はまさにグローバルビジネスマンであり、世界中に構えたオフィス間をプライベートジェット機で移動していました。自身の会社のために研究所を設立し、化学や工学から、財務やビジネス文化に至るまでの幅広い専門知識を持ち、当時の各分野の最高の人材を採用しました。この時点で、アイゼンバーグは世界でロスチャイルド家に次ぐ裕福なユダヤ人となっていました。

 アイゼンバーグはユダヤ系ウクライナ人の友人であるミハエル(ミーシャ)・コーガンと共に東京のユダヤ人コミュニティーの主要なスポンサーにもなりました。アイゼンバーグがそうであったように、コーガンはロシア革命から逃れるために中国のハルビンへ渡り、そして日本へとたどり着いた難民でした。戦後は日本で貿易会社を設立し、自動販売機やジュークボックス、パチンコ等の機械を輸入販売することで財を成します。この会社は後に、ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」となり、日本を代表するアミューズメント企業の一つとして大きく成長します。アイゼンバーグは、渋谷区広尾に今でも存在するユダヤ人コミュニティー建設のために資金提供し、横浜の外国人墓地(ガイジンボチ)にはユダヤ人区画を作るための土地も購入しました。

 一人のユダヤ人であるアイゼンバーグにとって、イスラエルは特別な場所です。彼は多くのイスラエル企業が中国市場に参入する道を開き、イスラエルと中国の外交関係を確立する上で重要な役割を果たしました。52年にはイスラエルの市民権を取得しましたが、まだ日本に住み続け、68年にイスラエルのテルアビブの富裕層が住む地域に家を購入した後に、毎年数カ月はそこに住むようになりました。5人の子ども(1男4女)全員に対しては、イスラエルに来て兵役を務めることを指示しています。イスラエルの彼の家には和室が作られ、数人の首相を含む多くのイスラエル人ゲストを迎えました。歴代唯一の女性首相であるゴルダ・メイア(在任期間1969年〜74年)にとっては初めて触れる日本文化でした。

 アイゼンバーグは97年、中国の北京に構える自身の事務所で86年の生涯に幕を下ろしました。ユダヤ人難民として日本に渡り、その地を故郷とし、想像を超える成功を収めた彼は20世紀を生きた偉人の一人であり、その物語は苦難の中で今を生きる多くの人々にも勇気を与えるはずです。

 現在私は、日本でアイゼンバーグについての本を書いています。アイゼンバーグ本人についてや、東京のユダヤ人コミュニティーの歴史に関する情報をお持ちの方はご連絡いただけましたら幸いです。

(nissimot@gmail.com)

○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレム・ヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。

 http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%83%a6%e3%83%80%e3%83%a4%e4%ba%ba%e9%9b%a3%e6%b0%91%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%a7%e5%a4%a7%e5%af%8c%e8%b1%aa%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f-%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%82%bc%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%bc%e3%82%b0%e3%81%ae%e7%94%9f%e6%b6%af/ar-BBWZ4Q5
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