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2019年08月21日18:37

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【大坂の家康伝説】(1)夏の陣で絶命? 堺に墓、くすぶる討ち死に説

 下記は2019.8.21 付の 産経WEST の記事です。

                       記

 徳川家康は大坂夏の陣で討ち死にした−。古墳時代から連綿と続く歴史文化のまち・堺に、こんな言い伝えがある。

 正史では、家康は夏の陣翌年の元和2(1616)年、タイの天ぷらを食べたことが原因で静岡の駿府城で亡くなり、栃木の日光東照宮に改葬されたことになっている。だが、堺には「家康の墓」まで残っており、単なる「都市伝説」として片付けるのは乱暴にすぎるというものだろう。

 ということで、家康の墓がある堺市堺区の古刹・南宗寺(なんしゅうじ)を訪ねた。

利休ゆかり

 旧堺市街を取り囲む環濠の南端に位置するこの寺は弘治3(1557)年、戦国武将の三好長慶が父の菩提(ぼだい)を弔うために創建。家康というよりは、堺が生んだ茶人、千利休ゆかりの寺としての方が有名で、境内には利休好みの茶室「実相庵」や利休遺愛の手水鉢などがある。

 利休にまつわる話は別の機会に譲るとして、家康伝説である。田島碩應住職(68)は「地元の人はともかく、よそから来た人はみなさんびっくりされますね」と説明してくれた。

 田島住職によると、夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた家康は、駕籠で逃げる途中、豊臣方の武将・後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びたが、家臣らが駕籠を開けてみるとすでに事切れていた。その遺体は南宗寺の開山堂下に隠され、後に改葬されたという。このことは昭和2(1927)年刊行の「南宗寺史」にも記されている。

幸之助翁も賛同

 伝説が本当だとしたら、夏の陣の翌年に駿府城で亡くなった家康は誰なのか。

 「影武者ということになるでしょうね。徳川家にすれば、家康が大坂の陣で戦死したことが公になれば、従ってきた大名らが離反して体制がひっくり返りかねませんから、隠し通す必要があったでしょう」と、田島住職は思いを巡らせる。

 田島住職の案内で境内の真ん中あたりにある開山堂跡へ。そこには無銘の塔と呼ばれる卵形の石が置いてあり、この石の下に家康の遺体を仮埋葬したと伝えられている。その隣には、幕末の幕臣・山岡鉄舟の筆により「無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在」と刻まれた石板がある。「この無銘の塔を家康の墓と認める」の意味と解されるという。

 さらに、開山堂跡の東側には、「東照宮 徳川家康墓」と刻まれた墓が。徳川御三家の水戸徳川家家老の子孫らが昭和42(1967)年に建てたもので、裏側には賛同者として松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏や当時の堺市長、国務大臣らの名が刻まれている。

三つ葉葵の紋

 「先の大戦で焼けてしまいましたが、ここにはかつて(家康をまつる)東照宮があったんです」と田島住職。本殿こそないものの、そこへ通じる「唐門」は現存しており、門の上部には徳川家の「三つ葉葵」の紋がついている。門に続く壁の屋根瓦の紋も三つ葉葵だ。

 家康伝説を裏付ける状況証拠がまだある。境内にある「坐雲亭」内に、元和9(1623)年の夏、2代将軍秀忠、3代将軍家光が相次いで南宗寺を訪れた−という記録が残されているのだ。

 「参拝に来たと考えるのが自然。ほかにここを訪れる理由がないでしょう」

 一方、家康の夏の陣討ち死に説には決定的な物証がないのも事実で、疑問点もいくつかある。

(古野英明)

                       ◇

【用語解説】大坂の陣 徳川家康の江戸幕府が、豊臣家を滅ぼそうと大坂城を攻めた大坂冬の陣(1614年)と大坂夏の陣(15年)の総称。冬の陣で家康は大坂城を攻めたが、豊臣方が奮戦し、いったん和議を結ぶ。翌年、徳川方が和議の条件に反して大坂城内の堀を埋めたため豊臣方が挙兵し、夏の陣が勃発。豊臣方の真田信繁(幸村)が、家康の本陣を脅かす戦いぶりを見せたが戦死したとされる。豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城は焼失し、秀吉の子・秀頼は母の淀殿とともに自害した。

                       ◇

【プロフィル】古野英明(ふるの・ひであき) 大阪新聞報道部、産経新聞大阪本社文化部などを経て昨年10月、堺支局長。歴史好きで堺の史跡巡りを楽しんでいるが、最近は臨海部の工場夜景やアナゴ料理、和菓子など堺のグルメにもはまっている。

 https://www.sankei.com/west/news/190821/wst1908210001-n1.html
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