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2016年07月31日16:22

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孟子曰く「不道徳にして高位に在るは、その悪を衆にばらまくなり」 大阪大名誉教授・加地伸行

 下記は、2016.7.31 付の【古典個展】です。

                        記

 今日は東京都知事選挙である。参院選挙もすでに終わり、選挙のことは明日からみんなの関心事でなくなる。世の関心はリオオリンピックに、さらには政府の内閣改造に続く政策へ、となってゆくことであろう。

 それは自然なことで、人々が求めているのは、どういう政策が登場するか、である。とすれば、政治家の資格における最優先条件は、政策立案やその実行能力ということになる。

 となると、あれほど騒いだ舛添要一前都知事をめぐる人格的問題(公私混同の疑惑など)は、いったいどこへ行ってしまったのであろうか。

 政治家の資格における人格性の必要が、舛添問題の中心であったはずである。

 舛添問題は、単なる笑い話ではなくて、政治家の本質的問題を突き付けたのである。すなわち政治家には〈政策的力量と品格と〉の両者が必要と。

 しかし、このことは決して特殊な問題ではない。古今東西において常に求められてきた問題なのである。

 わけても、東北アジアの儒教文化圏においては、根本的問題であった。それを要約して言えば、人格のすぐれた人(聖人)であって始めて政治的指導者(帝王)となることができるというのが儒教政治理論である。何よりも人格第一であった。

 遠い古代の〈くに〉は、今日の国家と異なり、共同体(無償の愛を軸とする)の大型版であったから、共同体的意識や感覚が中心であった。だから、共同体的リーダーすなわち道徳的にすぐれた人格者が政治を担当したのであった。

 しかし、年月とともに、くにから国家へ、さらには近代国家へと大組織となり、共同体的性格が薄れてゆくなかで、次第に政策的有能者が政治を担当するようになってきたのである。

 かと言って、政治家に共同体リーダーのような人格性を求めなくなったわけではない。近代国家となっても依然、そうした気持ちが残っていった。すなわち〈政策的力量と品格と〉両者のそろった人物を求める気持ちが日本人にはある。

 だから、舛添問題のとき、彼の政策を批判したのではなくて、彼の品格を問題としたのである。

 事実、政治家や首長を選ぶときの基準についての世論調査において、1位は政策、2位はその実行力、3位は人柄というふうに並ぶのが普通である。

 すなわち、日本人の心に、政治家には〈政策的力量と品格と〉の2条件が必要という意識が定着していると言っていい。

 それは、法に依(よ)る近代国家の意識(政策は法を通して実施される)と、道徳を大切にする共同体感覚(リーダーは人格者)との2つが、混合しながら生きているということである。

 この両者はどちらも大切であるが、儒教的影響の残る日本においては、品格を重んじる気持ちが強いのではなかろうか。『孟子』離婁(りろう)上篇に曰(いわ)く「不仁(ふじん)(不道徳)にして高位に在(あ)るは、是れその悪(わざわい)を衆に播(は)する(ばらまく)なり」と。 (かじ のぶゆき)

 http://www.sankei.com/column/news/160731/clm1607310006-n1.html
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