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2015年09月24日20:33

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紀和の道 舞う八咫烏 神々に導かれ

 下記は、2015.9.24 付の産経ニュース【神武・海道東征 第7部】です。

                    記

 熊野の荒ぶる神々を倒したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)への高天原の支援はさらに続く。古事記はこう書く。

 〈高木大神(たかきのおほかみ)の命以(も)ち、覚(さと)し白(まを)さく、「天つ神の御子、此れより奥つ方にな入り幸(い)でましそ。荒ぶる神いたく多し。今天より八咫烏(やあたからす)を遣はさむ。(略)」〉

 高木大神は、天照大御神と並ぶ高天原の神として古事記に再三、登場する。また日本書紀も、行く道も見つからずに途方に暮れて眠りについたイハレビコが、ある夢を見たとして、八咫烏が派遣される経緯を書いている。

 〈天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて曰(のたま)はく、「朕(われ)今し頭八咫烏(やたからす)を遣さむ。以ちて郷導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ〉

 夢から覚めたイハレビコの頭上には巨大な鳥、八咫烏が舞っていた。

 「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。(中略)我が皇祖(みおや)天照大神、以ちて基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」

 イハレビコは、天照大御神の意思を感じ取ってそう言い、八咫烏の先導で熊野の山を越えていく。

 東征を成功に導いた存在として欠かせない八咫烏について、記紀は巨大さを表す「八」の数字を使っているだけで、詳しい姿を書いていない。が、一般には3本の足を持つ烏として描かれる。

 「3という数字は聖なる数字。また、3本の足は朝日、昼間の日、夕日の3つの太陽を表すともいわれています」

 『熊野八咫烏』(原書房)の著者で、熊野三山協議会の山本殖生幹事はそう話す。八咫烏とは太陽の使い、つまり天照大御神の使いという指摘である。

 「ただ、地元では熊野の神の使いと信じています。高天原の神だけではなく熊野の神々もイハレビコを助けたと考えているわけで、私もそう思います」

 熊野の伝承は後世、この地の山々が修験道の修行場になる空気を持つことから生まれている。難行苦行を通じて再生を願う場。それが修験道の修行場である。敗走や兄たちの死を経験したイハレビコはそこで、力を回復して大和に攻め上ったという考え方である。

 「敵地で気を失ったことは死と同じ。そこから回復したのだから、熊野の神はイハレビコを大業を成し遂げる存在と認め、八咫烏を送ったのでしょう」

 八咫烏は今、熊野三山の神使として、紋などに姿を見ることができる。

 「神武天皇の道案内をして無事に大和に導いた功績から、『導きの鳥』としての信仰を集めるようになりました」と、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の中平将之・権禰宜(ごんねぎ)は話す。

 明治22(1889)年までは同大社の摂社として、八咫烏社が熊野川沿いの大斎原に祭られていた。川の氾濫で流失したが、熊野三山では、八咫烏の姿を組み合わせた「烏文字」印のついた熊野牛王符や、お守りを授かっていく参拝者が絶えず、導きの信仰は根強い。   =(5)に続く

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 【用語解説】熊野三山

 熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、熊野速玉大社(同県新宮市)、熊野那智大社(同県那智勝浦町)の総称。熊野大権現ともいわれる。主祭神はそれぞれ須佐之男命、イザナキノミコト、イザナミノミコトとされるが、神仏習合の影響も色濃い。

 中世以降、熊野詣が盛んになり、参詣道を歩く人々の様子は「蟻の熊野詣」と呼ばれた。平成16年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。三山は勧請(かんじょう)され、全国各地に熊野神社が創建されている。

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 【用語解説】交声曲「海道東征」

 詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。国生み神話から神武東征までを8章で描いている。

 皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、戦後はほとんど上演されなくなった。昨年の建国記念の日、白秋の郷里・熊本で復活上演され、話題になった。

 白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、信時の曲は簡潔にして雄大と評される。

 http://www.sankei.com/west/news/150924/wst1509240001-n1.html
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