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2015年05月31日00:13

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日本の安全を真剣に考えない政治家たち

 下記は、2015.5.27付のJBpressに寄稿した、元空将 織田 邦男 氏の論考です。

                        記

 自らの保身を最優先し自衛官を出汁に使うのはおやめなさい

 安全保障法制に関する国会論戦が始まった。5月20日に党首討論が行われたが、これを聞いていて暗澹たる気分になったのは筆者だけではあるまい。特に現役自衛官は、現実と乖離し、上っ面で浅薄なやり取りを聞いて、大いに気分が沈んだに違いない。

 現役自衛官には言論の自由がない。心に鬱屈した憤懣を抱えながらも、不平も言わず黙々と任務を遂行していくに違いない。だがそれは健全な軍と政治の関係ではない。むしろ危険なことだ。

 誰かが言わなければ、政治家は自衛官の心情が理解できないので、言論の自由がある自衛官OBが彼らを代弁してみたい。

 特に違和感を覚えたのは「自衛隊に対するリスク」のところだ。昨年7月の閣議決定以降、メディアも「自衛官の危険が増える」との感情論で、国民の不安をあおり、結果的に本質的な安全保障論議を妨げてきた。

 センチメンタリズムで集団的自衛権の限定行使容認を非難し、国民のシンパシーを得ようとする態度では安全保障論議は決して深まらない。それどころか「自衛官の危険が増える」と「自衛隊志願者が減少」するため、将来は「徴兵制」が導入されるといった荒唐無稽な暴論が跋扈することになる。

 センチメンタリズムで議論を矮小化するな

 党首討論では、岡田克也民主党党首は「自衛隊の活動範囲は飛躍的に広がる。戦闘に巻き込まれるリスクも飛躍的に高まる」と繰り返し主張し、安倍晋三首相に対し、自衛隊のリスクが増すことを認めさせようとした。

 安倍首相は質問には直接答えず「安全が確保されているところで活動するのは当然だ」と答弁した。5月22日には中谷元防衛大臣が記者会見で「自衛隊のリスクは増えることはない」と述べている。

 感情論、心情論がメディアを占拠している現状では、こういう答弁にならざるを得ないのだろうが、国際的には決して通用しない安全保障の質疑である。

 現役自衛官にとっては「普段、自衛隊を蔑ろにしているのに何だ。法案成立阻止の手段として『自衛隊のリスク』を利用してもらいたくない」という思いを強くしただろう。自衛隊が危険に晒されるなどといったセンチメンタリズムによって、安全保障論議を矮小化してはならないのだ。

 拙稿「有事の際、海外の邦人救出はしなくて本当にいいのか」
(2015.3.18)で既に指摘したので細部は省略するが、自衛隊法の「邦人輸送」の現行規定でも、安全が確保されなければ、自衛隊機が在外邦人を救出に行くことはできない。

 危険だからこそ自衛隊が行くべきなのであり、安全が確保されているなら民間航空会社に頼めばいい。矮小化された稚拙な議論が、国際常識からすればとても通用しない奇妙なこの規定を生んだのだ。

 そもそも「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるときに、自衛隊がリスクを冒さなくて誰が国防の責務を担うのか。

 生命至上主義の戦後平和主義によって、日本人は「リスク」という言葉で思考を停止するようになった。まさか「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があり、自衛隊しか対処しようがなくても自衛隊のリスク防止が大事だというのではあるまい。

 イエス・キリストの福音書に、羊飼いの話がある。100匹の羊を持つ羊飼いが、その中の1匹を見失ってしまったとき、羊飼いは、他の99匹をその場に放置してでも、迷子になった1匹を探しに行くという。これは宗教の世界では有り得ても、現実の政治の世界では有り得ないし、あってはならない。

 国民のリスクそっちのけの議論

 羊飼い(国民の安全に責任を持つ政治家)は、「100匹の羊」(国民)の安全が脅かされようとした場合、「事に臨んでは危険を顧みず」脅威に立ち向かう「1匹の羊」(自衛隊)に「99匹の羊」(国民)の安全を託す。「1匹の羊」(自衛隊)は危険を承知でこれに立ち向かうのである。

 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があり、自衛隊しか対処できないような事態には、「リスクはある。だが、国家、国民のためどうか頼む」と自衛隊にお願いするのが政治ではないだろうか。

 今回の党首討論は、まるで「99匹の羊」(国民)のリスクはそっちのけで、「1匹の羊」(自衛隊)のリスクの方が大事と主張しているようで極めて違和感を覚えるわけだ。

 我が国の防衛、あるいは海外での国際平和協力活動等に従事する自衛隊は、これまでもリスクがあった。だが、これまでリスクが現実化した時のことを考えて、政治は自衛隊を扱い、そして自衛官を処遇してきただろうか。

 現実を知っているだけに、今回の質問には、「自衛官のリスク」を出汁にした安保法制阻止の戦術が透けて見えるだけでなく、国の存立を担う崇高な任務への尊厳、尊崇の念、あるいは自衛官が持つ矜持に関する理解や畏敬の念が微塵も感じられないのだ。

 「事に臨んでは危険を顧みず」を誓って厳しい訓練を重ねる最中に、あるいは災害派遣や領空侵犯措置の任務遂行中に、志半ばで殉職した隊員は1851柱にものぼる。(平成26年10月25日時点)

 「自衛官のリスク」を出汁に使い、いたずらに安全保障を政治問題化し、真剣な安保法制論議を阻む行為は、殉職した自衛官達、そして御家族に対する冒涜であることを強く認識してもらいたい。

 次に、岡田党首が「巻き込まれ論」を繰り返すのも、セピア色の写真を見ているような気にさせられた。

 昨今の厳しい安全保障環境にあっては、日本の平和と安全は一国では確保できない。北朝鮮の核問題のみならず、近年の中国の急激な軍拡、力による一方的な現状変更の動きには、日本の安全が脅かされている。

 セピア色した「米国に巻き込まれ論」

 中国は「力の信奉者」である。経済力、軍事力など、米国に次ぐ力をつけた中国の挑戦的行動を抑止し、紛争を回避するには、米国の力を借りるしかない。

 中国も最強の軍事力を有する米国とことを構えることは避けたいと考えている。だが、今や米国でも一国では手に余る。紛争を抑止するには、日米の強力なタッグマッチが必要とされている。

 最大の問題は米国が国際問題に関心を失いつつあることである。昨年、バラク・オバマ大統領は「もはや米国は世界の警察官ではない」と繰り返し述べた。

 アジアの平和と安定には米国の関与は欠かせない。日本に今問われているのは、内向きになる米国をいかに「巻き込む」かであり、岡田党首が叫ぶように米国に「巻き込まれる」のを懸念することではない。

 内向き傾向の米国にアジアへの関与を続けさせるには、現行憲法下で可能な範囲の集団的自衛権行使を認め、日本が米国と負担や役割を分かち合うことが欠かせない。

 ロバート・ゲーツ元国防長官は離任の辞で次のように述べた。

 「国防に力を入れる気力も能力もない同盟国を支援するために貴重な資源を割く意欲や忍耐は次第に減退していく」

 米国の力が欠かせない日本にとって、「米国の意欲や忍耐」を減退させない努力が必要である。

 トーケル・パターソン元米国国家安全保障会議部長も次のように述べる。

 ただ飯、ただ酒を家訓にしていいのか

 「集団的自衛権を行使できないとして、平和維持の危険な作業を自国領土外ではすべて多国に押しつけるという日本のあり方では、日米同盟はやがて壊滅の危機に瀕する」

 「タダメシ、タダ酒を飲むのが家訓」のような一国平和主義では、日米同盟は崩壊するだけでなく、日本は世界で孤立し、安全保障自体が成り立たなくなるだろう。

 日本のエネルギーの生命線とも言えるホルムズ海峡で、機雷掃海の必要性が生じた場合、文句なく真っ先に駆けつけなければいけないのは日本である。それを法的に可能にするのが今回の安保法制なのだ。

 「集団的自衛権」と聞いただけで、壊れたレコードのように「巻き込まれ論」を繰り返すのではなく、現行憲法下でどうすればこれが可能になるかを模索すべきなのだ。

 国家の第一の目的は「安全」の確保である。安全なくして繁栄も人権もあり得ない。

 政治家は常に研ぎ澄まされた鋭敏な感覚・神経・感性をもって、国際社会で起きることを予測し、どうすれば脅威を避けることができるかを真剣に検討しなければならない。

 外界で起こったことは米国に任せ、自らは平和憲法をアリバイとして引きこもる。これまでのような「引きこもり平和主義」では、もはや21世紀は乗り切れない。

 瑣事に拘泥し議論を矮小化するのではなく、これからの国際情勢をどのように認識し、何故今、集団的自衛権行使が必要なのかを真剣に考える。大所高所に立った本質的な国会論戦を期待したい。

 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43865
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