ここはダメだろう>毎日新聞。
>弁護側から、なぜ安楽死させないといけないのかと問われると「多くの問題を引き起こしているもとになっている」などとゆがんだ主張を展開。
「ゆがんだ主張」というのは、検察側の意見でもなし、弁護側の意見でもない。毎日新聞記者の意見である。
新聞記者が客観報道の中で「ゆがんだ」なんて価値判断を記述してはいけない。
植松聖被告の主張は一本スジが通っている。
>被告は「自分には責任能力があると考えている」と述べ、責任能力がないとして無罪を訴えている自身の弁護人の主張を否定した。
>被告人質問で弁護人の主張について問われた被告は「責任能力を争うのは間違えている。なければ即、死刑にすべきだ」と述べた。
>これに対して検察側は、被告が事件前にハンマーを購入するなど計画性があり、意思疎通できないと判断した障害者を選んで事件に及んだ点などから一貫性もあったと指摘。
植松は、責任能力が無い(と植松が判断した)人間を「責任能力が無い」という理由で、殺した。
この行為が(植松の思想上で)許されるのは、植松自身に責任能力が有ることが大前提になる。
もしも、植松自身に責任能力が無いのならば、植松本人こそ生きていてはいけないので、すぐに死なねばならない。他人を殺す資格は無いのだ。
弁護側の理屈は、植松に責任能力が無いから、無罪なり減刑で死刑反対。
植松の理屈は、もし植松に責任能力が無いなら、被害者たちと同じく生存の権利はないので、死刑じゃないにしても自殺しないといけない。自殺もできないなら(責任能力のある)誰かが殺さないといけない。
植松の主張は、植松に責任能力が有るから、現行の刑法上は死刑でなければならない。
ただし、植松は、責任能力のある人間が責任能力が無い人間を殺すことは正義に値するので、刑法上の罪に問うべきではない、と言いたいのだろう。
植松聖被告の主張は一本スジが通っている。
と同時に、植松聖被告の脳みそは何本かネジが抜けている。
われわれは人間の命は大切だと教えられる。
しかし、植松みたいな人殺しの命は大切ではない。死刑にしろ!と思う。
つまり、人間の命は、その「行為」によって、大切だったり、殺すべきだったりする。
ならば、人間の命は、その「能力」によって、大切だったり、殺すべきだったりする「植松思想」だって、成立するかもしれない。
殺された被害者たちの無念への復讐として、植松を死刑にするのは構わないが、私も賛成するけれど、
植松が通した「スジ」のいったいどこが曲がっているのか?いないのか?
植松が失った「ネジ」とはいったい何だったのか?それとも「ネジ」なんか初めから無かったのか?
こっちは、遺伝子が必ず多様な能力の個体を作る設計図になっている「われわれ」にとって大事な話なので、これからも考え続けないといけないだろう。
植松被告 弁護人の主張を否定
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5947254
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