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2019年12月14日11:21

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親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず(歎異抄)

大谷派や本願寺派で真宗教学がどうなってるのかは知らないが、歎異抄に曰く

「私は、父母の供養のためだとしても、他人のために念仏を唱えたことは一度もありません。念仏は、ただただ、この私一人のために唱えるだけです」

真宗は絶対他力である。阿弥陀如来しか頼りにならない。
自分は完全な無能者である。自分すら自力で救えないのに、たとえ親兄弟であろうと、他人が救えるわけがない。
念仏は、それぞれ個人個人、自分のためだけに唱える。他人を救う念仏などない。

念仏は、「阿弥陀如来」と「この私」の1対1の命懸けの決闘である。
親であろうが、子であろうが、他人の介在する余地はない。

一生のうち、たった一度でよい、声に出さなくてもよい、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、弥陀の広大な慈悲を持って、極楽往生は間違いないのだ。

宗派偽り葬儀で読経した僧侶を提訴 遺族におわびで発覚
(朝日新聞デジタル - 12月13日 18:44)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5901121

理屈で言えば、死んだ門徒さんが、生前、一度でも念仏を唱えていれば、往生間違いなしなんだから、葬式すら不要である。

まあそうはいっても、心情は判らんではない。
どうしてもというのなら、家族が念仏すればそれでOK。

坊主を呼ぶ必要もない。
本願寺の正式の坊主だろうが、たとえインチキ坊主だろうが、念仏嫌いの創価学会員だろうが、近所の馬鹿だろうが、何も判らず音声を真似てるだけの九官鳥だろうが、念仏の効能には、何の違いもない。

念仏そのものに絶対の価値があるのであって、唱えている人間(または畜生)の個々の思想信条、善悪、正邪なんか関係ないからだ。ゆえに、悪人も救われるのだ。

念仏は他人の供養のためにあるのではない。自分自身のため【だけ】にあるのだ。
もしも門徒さんならば、歎異抄の親鸞を信じるべきだろう。


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