子貢、告朔の饋羊を去らんと欲す。子曰く、賜や女はその羊を愛む、我はその礼を愛む。
いつの日か、大河ドラマ「三好長慶」をやってくれたら、毎回見るのだが(笑)、それはともかく。
阿波踊り、9千万円の赤字見通し 「5年で黒字化」改革
(朝日新聞デジタル - 08月21日 07:48)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5755702
無礼は承知で書く。県民は怒るかもしれないが、
阿波踊りが無いのなら、徳島県に何の価値があるのか?
祭礼と経済。形而上と形而下。どちらを優先すべきか?
これは古来より人間社会の最重要問題である。支那古典の論語でも論じられている。
子貢欲去告朔之饋羊、子曰、賜也、女愛其羊、我愛其禮。
孔子の直弟子でも一二を争う大秀才・子貢が「毎月の告朔の祭礼で、毎回羊を生贄にするのは止めませんか? 経済的損失が大きすぎます」と孔子に進言した。
しかし孔子は「お前は羊という財産を失う事を恐れている。私は祭礼という文化を失う事を恐れるのだ」と返答した。
日本とは何か? それは靖国神社ではないのだ(笑)。
地に足の付いた人々に愛された土着の祭りこそが「日本そのもの」なのだ。
徳島から阿波踊りが消えたら、青森からねぶたが消えたら、だんじりが、祇園祭が、どんたくが消えたら、日本は、単なる「のっぺらぼうのアジアの一国」に堕するだろう。
赤字が惜しくて阿波踊りを捨てることは、経済的に見合わなくなったから日本を捨てる、と言ってるのと同じなのである。
孔子だけではない、ナザレの大工の息子も同意見である。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
(ヨハネ福音書)
経済的に正しいイスカリオテのユダの意見を採用せず、まったくの浪費に見えるマリアの行為に、イエスは神の恩寵を見るのだ。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。」
(マタイ福音書)
徳島県民はパンのみに生きるにあらず。踊ってこそ、そのワンステップ、ワンステップにこそ、魂を燃焼し尽し、生きるのだ。
それが、幸か不幸か(笑)、畜生ならぬ、人間の存在意義なのである。
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