誰かの握ったおにぎりは食える/食えないは、衛生問題なのだが、
公衆衛生的な衛生ではない。心理学的な文化人類学的な衛生である。
衛生・不衛生ではなく、浄・不浄なのだ。
西川史子も拒否した「他人が握ったおにぎり」 食べられない人の割合は意外と…
(しらべぇ - 06月20日 08:51)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=202&from=diary&id=5671239
徹底的に殺菌洗浄されたキモイおっさんの握ったおにぎりと、
布巾でさっさとぬぐっただけの母親の握ったおにぎり。
科学的に清潔なのはおっさんだが、心理学的に清潔なのは母親となる。
握る人間と食う人間の関係性が食える/食えないを決める。
だから、人間が介在しない方が食いやすい事にもなる。
人間の握るおにぎりは食えないが、機械でプレスしたおにぎりは食える、という人も多い。
握る側の人間性も重要だが、食う方の人間性も重要である。
通常の場合、美女の握るおにぎりは食える人が多い。
しかし、美女でも食えないという人もいる。
エレベータのボタンも押せない、という潔癖症の人である。
潔癖症もこじらせると、母親でも食えなくなる。
おにぎりが食える/食えないは、殺菌や洗浄の問題ではない。心理学や民俗学の領域なのだ。
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