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2016年07月31日00:54

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とどのつまりは「百姓根性」

 明治維新まで、日本の庶民は領主が誰になろうとさして関心はなかった。世の中が「戦国時代」であっても、それは殺し合いをしている武士の世界だけの話で、農民は、ただ、春に田植えをして、秋に収穫をして、お祭りをした後に冬ごもりのしたくをするループの中で日々暮らしていただけだ。

「誰が領主になっても同じだ」という心性は、古代から近代までの農民マインド、悪い言葉を使えば前時代的な「百姓根性」に他ならない。象徴的に言えば、「選挙に行かない人」というのは、たいへんな信念の持ち主か、徹底したニヒリストであるほかは、この種の「百姓」だとみてほぼ疑いはない。

現代の「百姓」たちは、もとより「農作業をなりわいにしている人々」ではない。彼らは、会社員や、専門職や、公務員や、スポーツ選手の顔をしている。

「百姓根性」はしばしば「帝力なんぞ我にあらんや(権力者が誰であろうと、俺の生活や人生にはなんの影響も及ぼさない)」的な矜持とすり替えられることがままあるが、ごまかされてはいけない。どんなに取り繕うと、とどのつまりは「百姓根性」である。

江戸時代の農民人口は8割を超えていたから、つい150年ぐらい前までは、日本人のほとんどは国家はもとより藩の政治にもほとんど(というかまるで)関心がなく、せいぜい半径100メートル以内の近隣者間の序列に腐心している「百姓」だった。

そう考えれば、150年間(実質的には普通選挙が行われるようになった戦後70年)で、投票率が5割を超えるようになったのは、政治意識の奇跡的進歩だといえるかもしれない・・・

・・・毎回の選挙で、あまりの投票率の低さに繰り返し幻滅するのがいやなので、以上の予防線を自らの心に張っておくことにする。



■各候補が最後の訴え=都知事選、31日投開票【都知事選】
(時事通信社 - 07月30日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4119748
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