【原文】
専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、
もってのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、
師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、
往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。
如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。
かえすがえすもあるべからざることなり。
自然のことわりにあいかなわば、
仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
【私感】
「私には弟子は一人もいない」っていうのも爆弾発言ですね。
関東の高弟だけでも二十四輩といって、24人います。
もちろん、その高弟がそれぞれ弟子をもっています。
でも親鸞は「私には弟子は一人もいない」と言い切ります。
なぜか・・・「私の弟子ではなくて、仏(阿彌陀佛)の弟子だから」です。
ただ、親鸞は法然を「師」として尊敬しています。
以前、日記に書きました。
仰げば尊し(2011年05月01日00:38)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1714484744&owner_id=5416651
師の恩というのは、弟子が感じるもので、
師が弟子に恩を売るのは間違いです。
あと、学校ではよくありますね。
自分のクラスの生徒を、他の教師が教えていると
「うちの生徒に手を出すな」みたいなことを言う教師・・・
「アンタの生徒じゃなくて学校の生徒ですから〜」
その状況がそのまま、歎異抄に書いてあります。
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