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2020年03月22日00:07

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歎異抄第5条と第8条と第10条

【第5条原文】
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、
神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

【第8条原文】
念仏は行者のために、非行非善なり。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
行者のためには非行非善なりと云々

【第10条原文】
「念仏には無義をもって義とす。
不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき



【私感】
全部同じ事です。
「親の追善供養のために念仏したことはない」も爆弾発言ですね。
これを「親に感謝することがない」と捉えると間違えます。
「自分の力で励む善」ではないので、自分の行を「回向」することはできないということです。
どこまでも「阿彌陀佛から与えられた念仏」です。

妙好人という市井の篤信者の中に「才市」という人がいます。
その人が
わしが念仏となえるじゃない 念仏の方から わしの心にあたる念仏 南無阿弥陀仏
と言っているのが印象的です。
「念仏の方からわしの心に当たる」
頭で理解せず、心で理解しているから、こういう言葉も出てきます。

つまり真宗の信者にとって念仏は「(往生のための)行」ではないのです。
あるとき、法然上人に「念仏をしていても眠たくなる。どうすればいいか」と訊ねたと、
徒然草に書いてあります。
その答は「目が覚めている間だけ念仏すればいい」でした。

徒然草第39段〜法然の言葉〜(2011年09月20日00:41)
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