私の編集者生活に大きな影響を与えた人がまた鬼籍に入ってしまった。
■作家の安部譲二さん死去 「塀の中の懲りない面々」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5780132
酒、煙草に加え、シャブまで入った身体だから、よく保たせたと言うべきか。
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『塀の中の懲りない面々』がミリオンセラーになったのは、私が32歳の時だった。
言うまでもなく、各社から執筆依頼が殺到した。
私も打田の了承を取り付けて、企画交渉に当たった。
超多忙となった安部に、どう腰を上げさせるか、他社を出し抜いて。
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木枯しの吹く12月のある日、私は二重にした紙袋に数千枚の原稿用紙を詰めた。
「雨の日、風の日、訪問日和」
祥伝社の新人研修で必ず言われる言葉だ。
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川崎の自宅を訪ねると、本人は留守で、前妻が出てきた。
「初めて仕事をお願いしましたので、原稿用紙をお持ちしました」
紙袋を渡すと、軽自動車で最寄り駅まで送ってくれた。
翌日午前、安部から電話がかかってきた。
「やります、やります」
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書き下ろし第1作『極道渡世の素敵な面々』は、50万部を超えた。
その中に取り上げられた1人が森田雅だった。
安部は、私に森田と前々妻の遠藤瓔子を紹介した。
「ヤクザは人を睨んで生きている」のだから、
安部が頭の上がらない2人を、私に託したのは名誉なことだった。
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この後、私は早坂茂三を手掛けて、20万部を2冊作った。
1500円くらいの本を100万部作ると、売り上げは10億、版元の粗利は3億くらいだ。
こうなると、社内ではオールマイティになる。
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編集者というのは、おおむね不平不満の塊である。
「上がアホだから」と新宿ゴールデン街あたりで酔いつぶれる。
私が、そうはならず、上にも「ウルセー」と言えたのは、安部のおかげだった。
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