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2020年05月28日10:39

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「旅のつばくろ」沢木耕太郎(新潮社)

本書は、JR東日本の車内誌「トランヴェール」に連載されていた、「旅」にまつわるエッセイをまとめたもの。
そのため、「旅」の舞台は、東日本一帯だけなのだが、沢木氏らしく、旅先での思いがけない遭遇や偶然のエピソードが盛り込まれ、読むのが楽しい。

小海線に乗り、小諸で下車、軽井沢から新幹線で東京に戻ろうと、小諸から軽井沢に向かう「しなの鉄道」に乗車中、向かいに座った上品な老婦人から声を掛けられる。
その女性は、沢木氏がたまたま手にして眺めていたパンフレットの表紙を見て、それが雲場池であること、紅葉がとても素晴らしいことを教えてくれたのだ。

軽井沢に立ち寄る予定がなかった沢木氏は、だが、せっかくの偶然を生かさない手はないと、軽井沢駅から循環バスに乗り、雲場池へ。
そしてその池のほとりの紅葉の美しさに息をのむ。
「パンフレットの写真の美しさをはるかに凌駕する、奥行きと色の複雑さがあった」(156頁)。

函館へ出かけたときは、ホテルに戻るのが遅くなり、近くの居酒屋で夕食を済まそうと入ると満席。
向かいの食堂に行ってみると、奥から出てきたおかみさんが、申し訳ないけど閉店時間です、と告げ、親切そうなそのおかみさんが一緒に沢木氏と通りまで出てくれ、少し歩くけどいい居酒屋がありますから、と教えてくれる。
ところがその居酒屋へたどり着くとそこも満席。
出ようとしたら店員が、もう少しでお帰りになるお客さんがいますから・・と彼に言う。
しかし沢木氏は、客を追い立てるようなのも申し訳なく、またあきらめることにした。
するとさきほどの店員が、近くに知り合いの店があるので行ってみませんか、うちからの紹介だと言うとサービスがあるかもしれないし、と教えてくれた。
沢木氏は面倒くさがるでもなく「空いている店を求めて転々とすることに妙な面白さを覚え」、さらに紹介された店にたどり着き、幸い席が空いていたので海の幸を注文すると、頼んでいないイカの活け造りがついていて、驚くようなおいしさだったという。(140頁)。

沢木氏は知人から「なんだかわらしべ長者みたいな話」と笑われたというが、わたしだったら、途中で嫌気がさしてコンビニか何かで適当にサンドイッチやおにぎりを買って、ホテルの部屋で済ませてしまうだろう。
空いた席をみつけられない苛立ちも見せずに、面白がるその精神こそが旅を、そして人生を楽しくしているのかもしれない。

沢木耕太郎氏と言えば、若者が世界を貧乏旅行する際のバイブルにもなった「深夜特急」が有名であり、旅のエッセイも面白いが、わたしは人物に焦点を当てて、その人の人生に伴走するかのように描き出す、ノンフィクションが好きだ。
沢木氏のファンになったのは13歳の時、父が定期購読していた「文藝春秋」に掲載された「おばあさんが死んだ」というルポルタージュを読んだのがきっかけで、それからもう、長い長いファンである。
10代の頃は、沢木氏の「人の砂漠」とか「テロルの決算」とか「敗れざる者たち」「若き実力者たち」といったヒューマンなノンフィクションを繰り返し繰り返し読んだものだ。
「人の砂漠」を読むと、通学の国鉄のディーゼル車のシートに座って、高校からの帰りに読みふけっていた15歳の自分がありありとよみがえってくる(その路線は、このたび廃線が決まった。ほんとうに悲しく、切ない)。

本書の中で、満席の居酒屋で、もうじき帰りそうな客のあとに座ろうとせず、店を辞去するところなど、いかにも沢木氏らしい姿だと思った。わたしだったら、「あ、待ちますから!」と店員に言ってしまうし、その客を今か今かとガン見しかねない。

沢木氏はご存知の方も多いかもしれないが、横浜国大を卒業後、富士銀行に入行するも、1日で退職している。
わたしは長いことそれが引っかかって「なんでたった1日で辞めたりしたんだろう。人事にも迷惑な話だし・・」などと思っていた時期があった。

ところが10数年前、エッセイ集「246」を読んで、ようやくその気持ちが分かったような気がした。
沢木氏の大学時代は学園紛争で混乱していた。
横浜国大もバリケードストライキで、4年生は卒業のめどが立たない。
沢木氏は同級生が「下に弟妹もいて、きょうだいのめんどうも見てやらないといけないから、はやく卒業して就職したい」と言うのを聞き、ストライキの解除を提案するが、セクトの学生たちからはさんざんな非難を浴びた。自分だけは、日和って、資本家の側に行くのか、と彼らは言いたかったのだろう。

けっきょく紛争の余波で遅れた卒業となり、沢木氏は9月に銀行の入行を迎えるが、1日で辞めたのは「ストライキ解除は自分の為だけではない、友だちの為でもあるのだ」という信念と、それを証明して見せるためにオトシマエをつけることだったんじゃなかいか、と思うのだ。

本書「旅のつばくろ」でも、銀行をやめ、フリーライター稼業を始めた、若き日の回想がふっと差しはさまれる。
学校出たてで、まだ収入も少なく、アパートの電気を止められたりする貧乏生活であったが、彼はそれさえも面白がっていた。

思えば、沢木氏の人柄が旅先でも親切を呼び寄せ、ライターの仕事でも取材先を紹介してくれる人が次々に現れる、という僥倖を生んだのだと思う。
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