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2018年10月23日13:57

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また夢の小料理屋のはなし・1

今年は、夏が終わったかと思ったら急に寒くなった気がする。
こう寒くなってくると熱燗が恋しくなるというものだ。
鍋でも突きながら体の芯からほっこりと温まっちゃったりしてね。
仕事が終わって会社から出ると、外の空気が冷たい。
スーツのポッケに手を突っ込んで、ちょっと背中を丸めてみる。
左のポッケの中で、煙草の箱がくしゃりと潰れる。
ああ、もう2本しか入って無かったっけ。
途中で買わなくちゃ。

新宿駅西口の家路を急ぐ人の波も、どこか冬に向かっている装いだ。
コート姿の若い女性の姿も随分増えた。
そうこうしているうちに本格的に冬になって、今年も何となく終わっていくのだろう。
確か去年も一昨年も、そのまた前の年も、こんな感じで終わっていった気がする。
これを繰り返しているうちに、白髪もちょっとづつ増えたりするんだよな。
大して苦労もしてないのに、やんなっちゃうね。
同い年くらいだろうか、眼鏡を掛けた前髪の薄い小太りの男とすれ違う。
何か連れの人と何かを話しながら、でも、やたらと楽しそうに通り過ぎていった。
前髪なんか無くても楽しそうにしている彼は、多分幸せなんだろうな。
幸福度と前髪の数は、多分比例しない。
きっとそうなのだ。
では、幸福度と白髪の数はどうなんだろうか。
今度、フライドチキン屋の前に置いてある張りぼての人形に聞いてみることにしよう。

気持ちだけはいつまでも若いつもりで居るけれど、もうぼちぼち「おじさん」にしか見えなくなっている自分に目を瞑りながら、今日も僕はこれから向かうのだ。
勿論、神楽坂にあるあの小料理屋にね。

「あら、お帰り。今日は何か寒かったわね。」
女将さんが、おでん缶に食材を入れながら笑う。
ここ何年も毎日繰り返している、僕の日常の光景。
「ただいま、だから急いで帰ってきたよ。」
「あら、寒くなかったら早く帰って来ない訳?」
「いや、そう言う訳じゃ無いけどさ、寒いと早く帰って来たくなるってもんさ。」
寒くても暑くても、一杯目はビール。
これは、自分が仕事から解放された事を確かめる儀式のようなものだ。
もっとも、会社に行ったからと言って僕が仕事をしているとは限らないのだけれど。
「しかしあれだな。」
「なぁに?」
「こうやって毎日同じような感じで生活しててさ、大したニュースがある訳でも無く一日過ごして帰ってきてもさ、不思議と会話ってのは無くならないもんだね。話のネタなんかそうそうあるもんでも無いって言うのにさ。」
お通しで出て来た小さなクワイを食べながら、呟いてみる。
「あら、でも全く同じ一日が毎日続いてる訳では無いもの、何かしらニュースはあるものだわ。」
「女将さんは毎日同じようにカウンターに座って酒を飲んでる男の話の相手をするの、飽きたりしない?」
「毎日小さな小料理屋で料理を作ってる女に飽きない男がいるくらいですもの、別に珍しい話じゃ無いわ、ウフフ。はい、今日のお夕飯。」
「お、良いねぇ。」
今日の僕の夕食は、湯豆腐のようだ。
「まだちょっと早いけど、美味しそうな鱈が出てたから仕入れてみたの。」
具は、豆腐と鱈と水菜。
若い頃は、湯豆腐の旨さが正直よく分からなかった。
こんなパンチの無いもののどこが美味しいのだろうと思っていたが、歳を食ってみて色々気付く。
この、とても味があるとは思えない具の一つ一つに、実は素材の味というものがあることをまず発見する。

豆腐のコク。
鱈の出す旨味。
水菜の歯触り。
それを受け止める出汁の複雑な味わい。
そして何より、腹の底から温まるのだ。

「良かったら、シメに雑炊にするから言ってね。」
女将さんが卵を準備しながら笑う。
女将さん、今日も良い笑顔である。
そうなのだ。
実は湯豆腐の最後に雑炊を作ると美味いのだ。
塩と醤油で味を調えて卵を散らせば、風味豊かな雑炊が完成する。
「一見面白みが無いように見える食材でも、きちんと味わうと美味しかったりするわよねぇ。」
そう言う女将さんの手には、いつの間にかビールの入ったグラスが握られていた。
こんにゃろ。

でも、そう言うものかもしれない。
何気無い日常の中にも、こっそり味わいのあるドラマというものは潜んでいたりするのだ。
多分、僕は今ちょっと笑顔になってると思う。

カラカラカラ…。
入り口が開く。
「あら、いらっしゃい。」
お、ミーちゃんだ。
魚を食べる時は不思議と彼女がやってくる。
流石は猫娘。
「わぁ、お兄さん今日は湯豆腐ですか?湯豆腐良いですね、じゃ、女将さん、私も湯豆腐で!」
「はーい。じゃあ、ちょっとだけ待っててね。今、生ビールの樽交換するから。」
「じゃあ、それが終わったらビールの一番美味しいところ下さい。」
「はーい。」

こうして今日も、またいつものように夜が更けていくのだろう。
ミーちゃんが来たって事は、田中ちゃんなんかもこれからやってきて、店の米を食い尽くしたりするに違いない。
瑤子さんも来るかな。

なんだ、別に大したニュースなんか無くても、僕の毎日は結構楽しいものじゃないか。
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