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2021年05月25日01:38

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ラトルのベルリンフィルデビュー(3)

気になる演奏だが、さっそくしっかりと聴いてみた。
これはもう、笑ってしまうような名演。聴き飽きた曲だが、低弦が活躍する新鮮な響きで、4楽章では荒波に飲み込まれ、終演後はガッツポーズしたくなるような、没入度の高い演奏だ。
緩徐楽章を2楽章に持ってきていて、初めて説得力があった。アバドとシカゴのは、緩徐楽章がいいので、ゆっくり3楽章で聴きたくなる。スケルツォは退屈なので、1楽章の流れに乗って勢いよく終わらせたい。しかし、ラトルはスケルツォの響きがおもしろいので、3楽章に置いても飽きずに持つ。

ラトルの退任コンサートがマーラー6番で、デビューとラストをそろえる趣向だったが、こんな物凄い演奏を再現するのは無理なので、やめたほうがよかったと思う。
いちおうハイレゾで聴いてみるが。むしろ、1987年の演奏がボーナスでつくボックスセットが気になる。たぶん、マーラー6番ではこれがベストレコードになるかもしれないので、新しいマスタリングも聴いてみたい。
とはいえ、今回のものも、放送録音が元になっているが、西ドイツは非常に優秀だったようで、バーンスタインとベルリンフィルのと同じく、素直にCD化されると十分によい音。むしろ、後から変にいじってないのがよい。

この演奏は、のちの幸福な関係に繋がってくわけだが、まず、ラトルは話が非常にうまいので、楽員はリハーサルでかなり感心したと思う。
次に、マーラーは、1987年はブーム真っ最中で、まだ聴き飽きが少なかったので、いろんな人にとって響きが衝撃的だったと思う。
また、ベルリンフィルは、カラヤン時代にはマーラーはあまり演奏していないので、「カラヤンより新たな時代感覚でいいんじゃ?!」っていう気持ちにもなっただろう。先日、1973年の「悲愴」コンサート映像をNHKでみたが、カラヤンがやたら瞑想的に主役としてふるまっていて、楽団員はあまりおもしろくないに違いなかった。響きの流麗さはさすがでもあったが。

アバド時代にも、ラトルが忘れられず、ついに首席に迎えられたわけだが、これはどうだったのだろうか? お互いの手の内を知り尽くして、安定した演奏を生み出しているが、お互いを知らないこのデビューコンサートを聴いてしまうと、真に創造的な機会というのは、時の流れの中で限られていると思わざるを得ない。
たとえばベートーヴェン全集。確かに面白いが、ウィーンフィル時代の全集のほうが、特に1番など新鮮でラトルらしい。変わった編成や響きと、シリアスさということで、ベルリンフィルならむしろアバド時代のライブを採りたい。

ラトルの弱点は、頭脳明晰なので、悲劇的でシリアスな曲のときにどこか醒めてしまうことだ。
若い時は勢いがあるので、それが目立ちにくい。
また、1987年のベルリンフィルというと、1988年や1991年の来日のときがそうだったが、クラシック音楽の盟主として熱い演奏をした最後の最盛期だったように思う。(この後は、だんだんレコードの売り上げが落ち、レーベルがなくなり、巨匠が他界しの繰り返し。)
響きが実に充実して熱気にあふれているのは、新しい才能に出会った興奮だけでなく、時代の波にも乗っていると思う。
悪くいうとヘラヘラと笑っているようなラトルのスタイルが、まだ楽団に浸透していなくて、マーラーが同時代的、もしくは現代音楽のような厳しい響きにも聴こえてくる。

ただ、やたら情緒的でもなくて、音響に語らせることに専心されていて、曲のどの地点にいるかは絶えず明快。
時代の転換点となる、非常におもしろい記録で、これは大当たりだった。
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