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2020年01月01日00:19

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紅白に第九

世の流れや日本社会から超越してるように思いながらも、31日に第九を聴いて紅白をみてしまっている。。

紅白は、前半もみず、ラストもみずで、ズバリ欅坂の特に平手さんだけを関心をもっていた。
今年は、白が勝つぞとか赤が勝つぞとかいっさい言ってない感じだったが、それはもう、ようやく空気を読んだというべきか、いっさい関心はない。

で、結果はというと、ネットにつなぐと、平手卒倒が一番ニュース。担がれていく様は、35年も前の、ライブで7m上から飛び降りて骨折した、もしくは死の直前に病院に運ばれていく尾崎豊の写真を思い出させる。
歌やパフォーマンスより、それ以外の動きで目を集めてしまうさまがそっくりで苦笑してしまう。

しかし、パフォーマンス自体も、ダンスだけだが、「不協和音」の笑顔が狂気じみて圧倒的であった。
あれは振り付けの指示なのか、本人が今日初めてやっているのか。
わからないが、カルロス・クライバーが、これも35年も前の来日時のベートーヴェン7番、2楽章の葬送行進曲で、幸せそうに笑いながら棒を振っている映像が悪魔的で背筋が寒くなったのを思い出した。
思いがけず、常識とずれている。

そうしてまた、このさきなにをしでかすのかと、引き続き追いかけてしまう原因となる。

第九は、ラトルとベルリンフィルで、3楽章から最後まで聴いた。
考えてみたら、第九を1曲聞きとおしたのは、中高生の時はあったと思うが、大学時にまああったか、それ以降、ないような気がする。
オーディオのチェックポイントに気が向いて止めてしまうとか、こんなコンディションで聴ききるのはもったいないと止めてしまうとか、単純にビジーネスマンになって、まとまった集中できる時間がないのもある。

音は、ベルリンフィルレコーディングスのハイレゾで、まあ文句つけようがない。
今日初めて思ったのは、第九って民衆の音楽なんだということ。
カラヤンやアバド、またフルトヴェングラーで聴いていると、貴族とか高尚な英雄の、壮大な自己完成の物語に聴こえてくる。
それも間違った像でもなかろうが、特に4楽章は、民衆が寄ってたかって、革命の高揚にテンションを上げるような、そんな雑多な迫力というか、多様性の魅力が大事で、神々しいアンサンブルみたいなものは二の次でいいのではと。
そういう意味で、ラトルは、庶民の出身というか、伝説の巨匠たちの後の世代というべきか、私には初めて、人間ベートヴェンの脳内妄想の愉快な高揚感というように感じられた。

昔はラトルは頭良すぎで感動しないという印象だったが、もう神話の時代ではないというか、アバド含め巨匠たちの演奏はときに感傷的にすぎるように最近は感じる。

N響の第九は、女性指揮者初登場ということで、少しだけ見たが、型通りのおっちゃんたちが硬く演奏してる日本の第九で、上記からは3段階ぐらい落ちる。
パーヴォ・ヤルヴィ就任の年の第九は凄かったが、ああいう変な情熱が、第九とか第五とかエロイカにはどうしてもいるんだよなと思う。
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