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2018年12月14日23:37

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12月14日

 初対面にもかかわらず、タメ口で話してしまうことがある。これは不敬ということではなく、相手がとにかく気さくで陽気な雰囲気があり、むしろ敬語を使うことが不自然に思えてしまうケースだ。出会った瞬間からその親密な笑顔に取り込まれ、気づけば間に距離を置けなくなっている。
 たとえば職場の掃除係のおばちゃんがそれにあたる。彼女は早朝にのそのそとやってきて、酒焼けしたガラガラの声で機関銃みたいにしゃべる。たいがいは薄給の愚痴か宗教の勧誘なのだけど、たまに若い時分のセックスについて恥かしげもなく語る。ご開帳という独特な言い回しで卑猥な話をするおばちゃんは、ババアうるさい、とののしることで成立する空気感をかもしており、実際に発言してみてもニタニタと笑うばかりで気を悪くする気配がない。むしろ「貴重なお話ありがとうございます」などと畏まれば、かえっておばちゃんを苛立たせることになるかもしれない。とにかく鬱陶しい存在ではあるが、公式的に横柄な態度をとれるヘンテコな人物だ。
 先日、金沢さんという、これもまた掃除係のダンディーなおじさんが、外のゴミ捨て場でおばちゃんと口げんかをしていた。ぼくはちょうど2階の便所で下痢をしていたのだけど、がなり立てる声がそこまで聞こえてきたくらいだからよっぽど激高していたんだと思う。ぼくはこれが無性におかしくてたまらず、ひとり個室で腕を噛んで笑った。何が面白いのかはわからないけど、ババアが憤怒しているという事態が、ぼくのユルイお腹にやけに沁みる。これが力の入らない体をこそばゆく這うようで、ぼくは腹痛にもだえながらたまらない気持ちになった。
 漏れ聞こえる断片的なワードを組み立てると、激怒の理由は「手術後なのに、なんであたしが重い方を持たなきゃならないのよ」ということらしい。たしかに以前、おばちゃんが手術をしたというのは個人的に聞かされた覚えがある。でもそれはずいぶんと前のことだ。それに手術と言ってもふくらはぎにあるポッコリした瘤を除去する簡単なオペで、とりたてて危険がなく短時間で終わるものだった。さすがにもう傷口も閉じ、完治しているはずだ。しかしながらおばちゃんは、これをさも大手術であるかのように持ち出してきて、どうにか仕事量を減らそうと必死になっていた。「すんごい演技力だ」とぼくはつぶやき、なんだかババアの汚い部分をのぞき見たようで、便器を水洗するころには妙に冷めた気持ちになっていた。
 それからおばちゃんと顔を合わせると、自分のなかに奇妙な壁があることを知った。いつものように目を合わせることができず、タメ口を使うことにためらいが伴うようになった。なぜかおばちゃんの態度もよそよそしく思えた。もしかしたらぼくの身をおく距離に、微妙な違和を感じ取っているのかもしれなかった
 その数日後、おばちゃんは退職をした。それを知ったとき、ぼくは驚いて声が出なかった。退職理由はわからない。誰にも何も相談しなかったみたいだ。なんだかあっけないお別れだった。ババアと呼べなかった最期が思いのほか悔やまれた。
 あのとき口ケンカをしていた金沢さんは言った。「急に来なくなったから、おれたちはとても迷惑をしている。あいつは勤め人として失格だ」。
 ぼくは内心、この人が原因をつくったのではないかと勘繰っていたので、この言い草にはムッとするものがあった。
 だからぼくは「ババア、なんでやめちゃったんです?」と少し意地悪く質してみた。
 すると金沢さんは、どう聞き違いをしたのか、「おいおい、おれのことをババアって呼ぶのかよ!」と驚きあきれた顔をしてみせた。
 ぼくは「え、いやいや、金沢さんのことじゃなくて」と首を振ろうとした、が、金沢さんは「まあ、別にいいけどさ」と言った。あ、こいつもババアって呼んで大丈夫なんだと思った。
 
 

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