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2020年04月05日23:02

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備中松山城 3

慶応4年(1868年)、戊辰戦争においては鳥羽・伏見の戦いに参戦するも旧幕府軍は敗退。慶喜は本陣であった大坂城を捨てて開陽丸で江戸へ脱出してしまう。この時に勝静は老中・酒井忠惇(ただとし)、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と共に慶喜と落ち延びてる。

その頃、備中松山は方谷が留守を預かっていたが新政府が岡山藩(32万石)に錦の御旗を渡して松山藩を朝敵とし松山討伐を命じていた。5万石の松山藩では勝敗は明らかであった。方谷は長州藩相手なら戦う覚悟を決めていたが朝敵とされてしまってはそうもいかない。藩内では領民を守り板倉家の存続させるには開城しか道はないとの意見で一致する。

しかし勝静と嫡男・勝全は江戸にいるため仕方なく藩主は強制隠居した事にして先代・勝職の従兄弟である勝弼(かつすけ)を養子にして藩主とする事で勤王派に鞍替えし、降伏するに至った。こうして岡山藩の管理下に入ったがそこへ鳥羽・伏見から退却してきた松山藩年寄役・熊田恰(あたか)率いる藩士150名が備中玉島まで帰還してきた。岡山藩は降伏の証として熊田の首を要求しこれを受け入れた恰は自害して果てた。これにより松山藩の戦争は集結し戦火を見る事はなかった。自刃の地には恰を祀った熊田神社が明治3年(1870年)に建立されている。

勝静はこれより1週間後に老中を辞職し逼塞処分(ひっそくしょぶん。門を閉ざして昼間の出入りを禁ずる刑罰)となったがその後、下野国の日光山に移りさらに宇都宮藩預かりとなったが英厳寺に軟禁となる。しかし東北では折しも宇都宮戦争が始まり旧幕府軍を率いた大島圭介によって開放された。さらに同じく元老中の小笠原行と共に奥羽越列藩同盟に参加し参謀となるのである。

これを知った新政府は当然松山藩に対して態度を硬化させてしまう。明治2年(1869年)には江戸無血開城が行われたがその際に松山藩は勝全の身柄を新政府に引き渡した。しかし勝静はなおも抵抗を続けて松平定敬や小笠原長行と共に函館戦争にも参加し五稜郭に籠城してしまう。同行した松山藩士も複数おり、土方歳三の指揮下に入って戦っていた。

山田方谷はこの状況を非常に憂慮し、顔見知りであったプロイセン商船に松山藩士を乗せて函館に派遣すると強引に勝静を江戸へ連れ戻した。方谷は勝静を豪遊させて戦闘意識を無くさせようとしたが藩の財政状況が悪く他の藩士より不満が続出。新政府への自主謝罪を求めた。これを受けて勝静は自訴し新政府は勝全と共に上野国安中藩で就寝禁固刑となる。

松山藩は2万石の減封となったが再興が許されて岡山藩の支配が解かれる事となった。明治5年(1872年)に特旨で赦免となった勝静は勝弼や藩士たちが自分たちに遠慮して勝全に家督を譲る事がないように言い渡した。明治9年(1876年)に上野東照宮の祀官になったが勝弼や三島中洲、川田甕江(おうこう)らと協力し第八十六銀行、現在の中国銀行の設立を行っている。

動乱の人生であった勝静は明治22年(1889年)に死去。享年66。
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