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2020年04月05日22:57

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備中松山城 2

その後も三村氏と宇喜多氏の抗争は続くが天正2年(1574年)、織田信長の登場により中国地方の勢力図も大きく変わり、後ろ盾であった毛利氏が宇喜多氏と同盟する事態に陥る。毛利氏は三村氏を見捨てたのであった。これに対して元親も方針転換をせざる得なくなり、直家と敵対する浦上宗景や信長と同盟して毛利氏から離反した。毛利家では小早川隆景が即座の三村氏討伐を進言したのに対し直家との同盟に反対していた吉川元春が元親の説得を行いたいとして意見が分かれたが隆景の案が採用され三村討伐軍が派遣されて備中兵乱と呼ばれる大戦へ発展していく。

毛利軍本隊も侵攻を開始したが難攻不落の要害である備中松山城を攻撃するのは不利と判断して周辺の諸城を徹底的に落としていく殲滅戦を行う。2ヶ月に及んだ殲滅戦を終えた毛利軍は遂に備中松山城を包囲するが元親はこれを撃退した。そこで持久戦に持ち込んだ毛利軍は備前から美作に至る広範囲で麦刈りを行って兵糧を断った。これにより籠城から2ヶ月も経つと城内からの寝返りも続出し、元親は妻子と家臣を落ち延びさせた後に毛利軍に願い出て検使の元で自害を要請し、毛利氏がこれを受け入れた事によって松連寺にて自害した。

その後、元親の子・勝法師丸も捉えられ隆景の命により殺害された。これにより三村家の本家血筋は絶えて滅亡に至る。元家叔父・親成など分家の血筋はその後も続いた。

その後は毛利氏配下の城として管理されていく。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで毛利氏が破れて減封になると徳川家康は小堀正次を城番とし麓に政庁としての御根小屋が築かれる。慶長9年(1604年)に正次が死去した事を受けて子・正一が1万2460石を継いだ。正一は慶長13年(1608年)に駿府城普請奉行となり、そこでの功績によって遠江守を叙任された事から官名に因んで「小堀遠州」と呼ばれるようになる。

元和3年(1617年)、池田長幸が6万3千石で城主となり備中松山藩が成立するが子・長常が嗣子なく没したため改易となり、城は備後福山藩主・水野勝成の預かりとなって城番が置かれた。寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で藩主となり2代・勝宗は3年の歳月をかけて現存する天守閣を築くなど城に大改修を加えた。しかし3代・勝美が嗣子なく死去し養子の勝晴もこの1か月後に13歳の若さで死去したため水谷家も断絶となる。

この断絶の際、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りを命じられ家老・大石良雄がこの任務を行って城番となった。彼らは後に赤穂事件でその名を知られる人物である。

元禄8年(1695年)に安藤重博が6万5千石で藩主となるが正徳元年(1711年)に転封となって石川総慶(ふさよし)が6万石で藩主となる。延享元年(1744年)に板倉勝澄が5万石で藩主となって以降は明治維新まで板倉氏が8代続く事となる。

7代藩主・板倉勝静(かつきよ)は陽明学者であった山田方谷(ほうこく)を抜擢して藩校・有終館の学頭とし、方谷の助言による藩政改革によって財政を立て直すと共に殖産興業(しょくさんこうぎょう)により余財を生み出して軍政改革を行えるほどの雄藩であった。しかし勝静は幕府の老中首座兼会計総裁という大役の身分でもあり幕末の動乱において数多くの局面に接している。そして慶応3年(1867年)の大政奉還においては「大政奉還建白書」を15代将軍・徳川慶喜から受け取る役割を果たしている。

御根小屋の石垣も立派な物です。
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