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2020年04月05日22:52

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備中松山城 1

昨年の11月三連休に岡山遠征を行い、念願だった備中松山城を見る事が出来た。
標高487mの臥牛山山頂に築かれた天険の要害であり、現存天守の1つで唯一の山城である。

歴史は古く仁治元年(1240年)に備中国有漢郷の地頭となった秋庭三郎重信が大松山に築城した事に始まる。元弘年間に高橋宗康が小松山まで城郭を拡張した。

戦国期に入ると要衝であった備中松山城は争乱の舞台となり、城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷していく。永禄4年(1561年)、安芸国の毛利氏を後ろ盾に尼子氏の勢力を破った鶴首城の三村家親は居城を備中松山城へ移して勢力を拡大していき備中国をほぼ統一して備前国の一部を支配し、備前や美作国へ進出していた。

永禄8年(1565年)、備前の宇喜多直家と敵対するにあたり備前や美作における宇喜多氏の諸城を攻略。当時、まだ土豪に過ぎなかった直家は窮地に立たされる事となる。永禄9年(1566年)、家親は直家との決戦に挑むべく出陣し美作の興善寺に布陣した。しかしここで直家は秘策を用いて家臣の遠藤秀清、俊道兄弟に家親暗殺を命じ、兄弟は短筒(銃身の身近い火縄銃)を用いて見事に家親を射殺せしめる事に成功する。鉄砲による初の暗殺劇とも言われる。

家親の長男・元祐は庄氏へ養子入りしていたため次男の元親が家督を継いで直家への復讐を誓い、同年、直家が備前国の支配拠点として築城した明善寺城を1万の大軍で夜襲をしかけ奪い取った。直家の総兵力は5千ほどで直家はまたしても窮地に立たされる事となる。しかし直家は先に三村氏に降伏していた岡山城の金光宗高、中島城の中島元行、舟山城の須々木豊前守らを寝返らせて退路を絶ち、明善寺城を孤立させた。直家は降伏勧告を行うが守備していた根矢与七郎と薬師寺七郎率いる150人の兵はこれを拒絶し元親へ援軍要請を行った。そこで直家は救援に来た元親を自領へ深入りさせて殲滅する作戦を画策。対する元親は明善寺城への救援部隊、直家本隊と決戦する本隊、直家居城である沼城を攻撃する部隊の三手に分かれて進軍する。

この陣構えを聞いた直家は明善寺城を早朝に奇襲して城兵を皆殺しにした上で情報源を絶ち、分散する三村軍を全兵力を率いて各個撃破する作戦に出る。三村軍の先鋒であった明善寺城への救援部隊は城を攻める宇喜多軍を城兵と共に挟撃するつもりであったが、落城を知らないまま進軍を続けていた。そこへ城を落とした宇喜多軍が火縄銃を用いて猛攻撃をしかけてきたためあっけなく崩れ去る。

沼城を目指す手筈の第二部隊は落城と先鋒の敗走を知って作戦を変更せざる得なくなり軍議を行ったが混成軍であったため意見がまとまらず旭川に布陣して宇喜多軍を迎え撃つと決まった時には三方面に展開した宇喜多軍に包囲攻撃され多数の将兵を失った。それでも残兵が八幡村で反撃に転じて大打撃を与えたがそれ以上の追撃を行えず、宇喜多軍も撤退する。

火の手が上がる明善寺城を認識した元親は落胆したがそこへ先鋒、中軍、共に壊滅したとの知らせが入る。三村軍の大半はまだ服従して日の浅い豪族連合であったため敗色濃厚と見た豪族たちは次々と退却を始めていった。しかし小川が多い立地ですぐに動けず、川に落ちる人馬も多数出て大混乱に陥る。しかし流石に元親本人を守る旗本たちにそのようなそぶりはなく、むしろ宇喜多の旗印を見て先代の弔いとばかりにいきり立った。

勢いで宇喜多軍の先鋒を崩す事には成功したがその間に宇喜多軍後陣の将兵が三村軍の両面へ展開し、またしても三方向からの攻撃を受けた三村軍は総崩れとなる。元親は討死を覚悟し玉砕突撃を行おうとしたが落ち延びる事を進める将兵多く撤退。元より兵数の少ない直家も追撃を行わず、明善寺合戦は元親の大敗で終わった。
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