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2019年12月12日23:24

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真清田神社

古代史研究の場を愛知県尾張地域に移してみる。

尾張国一宮である真清田神社は創建年代不詳であるが、その起源は古代に尾張国造かつ尾張国三宮である熱田神宮の宮司でもあった尾張氏に遡る。社格は現在の一宮市の由来にもなっている。

祭神は天火明命(あめのほあかり)とされ尾張氏の祖神である。天火明命の子孫は「天孫族(てんそんぞく)」と呼ばれていた。これは日本神話に光臨して大和政権を形作った豪族たちの総称である。
「古事記」及び「日本書紀」によれば天火明命は天忍穂耳命(あめのおしほみみ・天照大神の子)と高木神(高御産巣日神(たかむすびのかみ)が天孫降臨した際に高木神(たかぎのかみ)と称されるようになる)の娘・萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)との間の子であるとしているが、他の書物では全く別の系図が見られる。本人の別名に関しても他の神との混同が多々見られるため、後世に資料が逸脱、散逸したのであろう。

これに関連するかどうか、実は真清田神社の祭神については長らく論争の的になっていた。というのも真清田神社に関して記された一番古い資料、室町時代末期の「真清田神社縁起」によれば祭神は国常立尊(くにとこたちのかみ)であるとしている。これによれば崇神天皇の時代に国常立尊を勧請して祀ったとされており、さらに真清田神社が日本中の一宮であると主張している。

国常立尊は天地開闢の際に最初に現れた神である。そのため天照大神を祀る伊勢神宮と比肩するために天照大神よりも以前の神である国常立尊を祀る、とする事で自らの主張を証拠付ようとしたのではないかとされている。一方で室町時代末期から江戸時代初期の諸文献においては祭神を大国主神(おおくにぬしのかみ)としている。

これに対して江戸時代に吉見幸和(国学者、神道家、神職)や栗田寛(水戸藩国学者、歴史学者、「大日本史」編纂者の1人)が真清田神社の祭神は天火明命であるとする説を唱えた。これは「ますみ」の名前が「真清鏡(ますみのかがみ)」のように鏡に関係する言葉であるとし、鏡作氏や尾張氏の祖神である天火明命を示すものだという憶測である。しかし尾張氏は尾張国内において大きな勢力を持った一族ではあったが、真清田神社との関わりを示す証拠は何一つ見つかっていない。

江戸時代には国常立尊を中心に天照大神、月夜見神(つくよみのかみ)、大国主神、大竜王神の5柱を祭神としていた。その後「特選神明牒」において天照大神は天火明命の誤記であるとの指摘がなされ、他4柱を除いて天火明命の1柱のみが祭神であるとし、現在までこの説が採用されている。「真清田神社史」では国常立尊の祭神説を完全否定した上で尾張氏祖神である天火明命を祭り、同時に奉斎神として大国主神を祀ったものであるとしている。なお、社伝では大和国葛城地方(奈良県葛城地方)の高尾張邑(たかおわりゆう。地域名)を出た天火明命が神武天皇33年(紀元前628年)に当地で鎮祭されたのが創建であるとしている。これとは別に崇神天皇の時代に創建されたとの説も古来からある。

古来は多くの社領を有して「真清田荘」の名前で荘園とし、嘉禎元年(1235年)の文献では旧中島郡、葉栗郡、愛智郡、海東郡、海西郡の一帯で水田129町9反300歩(うち定田は96町120歩)という広大な社領を有していた。天文年間(1532年〜1555年)からは佐分氏が神職を務め(江戸幕末まで世襲)たが、天正13年(1585年)の天正地震で社殿が倒壊しその後社領も豊臣秀吉に没収されて衰えた。

江戸時代には徳川氏から庇護を受けて復興され、清洲城主であった松平忠吉が社領として200石を寄進。寛永4年(1627年)には尾張藩主・徳川義直が105石を寄進し、336石6斗の社領を保持した。

明治18年(1885年)、近代社格制度によって国幣小社に列し「真清田大明神」など複数あった呼称も「真清田神社」に統一された。昭和20年(1945年)の一宮空襲で楼門を残して社殿は全て焼失し昭和32年(1957年)までに順次再建されている。本殿及び渡殿、北門及び透塀、祭文殿が国の登録有形文化財に指定。
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