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2019年12月12日23:19

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茜部神社

茜部(あかなべ)神社は式内社、郷社であり、かつてこの地は奈良時代の710年頃に東大寺の荘園・厚見荘(後の茜部荘)であった。天長7年(830年)にこの地の守護神として勅令により宇佐八幡宮を勧請して創建されたと伝わる。一説に茜部の名はアカネ(アカネ科・つる性多年生植物)の生産地であった事から呼ばれた地名とする。祭神は

誉田別尊(ほむらわけのみこと)/応神天皇
息長帶比売命(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后(応神天皇母)
武内宿禰(たけうちすくね)

しかし成り立ちが複雑であり、5世紀頃に比売大神(海洋神、農耕神、鍛冶神として)が祀られ、6世紀頃に応神天皇(武勇、安全神、所願成就神として)、9世紀頃に神功皇后が合祀されたとされている。

天長10年(833年)、神仏習合の考えから空海が神宮寺として成就院を建立し、室町時代になると美濃守護・土岐氏や守護代・斎藤氏が自身の居城であった川手城や加納城、近隣の上茜部城の守護神として祭り保護されていた。天文22年(1553年)、斎藤道三が織田信長と聖徳寺で謁見した帰りにここへ立ち寄り休息している。しかし弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍による長良川の戦いに際して兵火にあい焼失。

その後再建されて斎藤氏を滅ぼした織田氏によって保護を受け、江戸時代に入っても歴代の加納藩主から保護を受けた。これら土岐氏、斎藤氏、加納藩主、尾張藩主らの奉納品が多くあり当時は10月15日の例祭に加納城から30人ほどの騎馬行列が参拝を行って流鏑馬、走馬式が行われていた。戦前には花火や神楽芝居が行われ、露店も出て賑わっていたという。

しかし昭和25年(1950年)に茜部村が岐阜市に編集されると例祭も伊奈波神社に合わせて4月5日となった。

明治元年(1868年)に明治維新が発生すると成就院は廃仏毀釈によって比較的早い段階で廃寺となり、宝物も四散してしまった。当初は武内宿禰ではなく比売大神(ひめおおかみ)を祀っていたが武内宿禰に変更された。比売大神、比売神は特定の神ではなく、祭神と並んで主祭神の妻や娘、または関係の深かった女神を示しているとする。一説に邪馬台国の卑弥呼を天照大神とし、その後継者であった壱与(いよ。台与とも)を比売大神に比定する考えもある。御神体とする木像はかつての兵火で損傷しているものの、その内の1体の姿は小柄な事から比売大神であるとされている。

全国に約10万社ある神社の内、八幡神社は2万5千社とされているが茜部神社はこれら分社の中で10番目に古く、手向山、石清水、鶴岡などの有名な八幡社よりも古い。

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