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2019年08月25日18:09

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西山公園(鯖江城)

鯖江藩7代藩主・間部詮勝は天保11年(1840年)に西丸老中に昇進した事により城主格に列せられた。鯖江藩の本拠地は鯖江陣屋であり本格的な城郭ではなかった。

詮勝は幕府から拝領された金5千両を元にすぐさま築城準備に取り掛かった。年寄職の間部司馬を築城御用掛りに任命し「御城普請」用の材木調査や小浜藩士である宮田源左衛門に城地や縄張の選定を依頼した。

しかし当時は天保4年(1833年)頃から発生した江戸四大飢饉(寛永、享保、天明に続くもの。寛永を除いた三大飢饉とも言われる)の1つと言われる天保の大飢饉が天保10年(1839年)にようやく沈静化したばかりであり、さらに幕末に至る動乱期や地理的問題など諸問題が重なったため「鯖江城」は築城が断念され幻と消えた。

築城に際して制作された城郭図が現存しており標高112mの長泉寺山、現在の西山公園の一帯を築城の選定地としていた。西山公園展望台がある小丘の上に本丸を置き天守造営も構想されていた。築城断念後、詮勝はこの地に庭園を造営し「陽(ひ)に嚮(むか)って常に明るく」との願いを込め「嚮陽渓(きょうようけい)」と命名した。

明治22年(1889年)、町村制発足によって鯖江町立の嚮陽公園となり、大正3年(1914年)には大正天皇即位の事業として整備され西山公園に改称された。昭和63年(1988年)には代々宮大工を営んでいた武生市の三田村工務店において天保12年(1841年)に描かれた「天守絵図」が発見されている。

現在は日本海側最大規模のツツジの名所で園内には約5万株が植えられており、平成18年(2006年)には「日本の歴史公園100選」に指定されている。なお、この選定基準として嚮陽渓の存在は大きい。園内には無料の西山動物園や長泉寺山古墳群・西山支群などがある。

本丸予定地だった頂上と底から見た夕日。これにて福井旅は終了。
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