mixiユーザー(id:52595329)

2019年08月19日23:41

121 view

府中城

レトラム見学後、付近の史跡へ。

天正3年(1575年)、越前一向一揆を滅ぼした織田信長は越前国に筆頭家老であった柴田勝家を配し、一乗谷に変わる新たな拠点として北ノ庄城を築かせた。そして勝家の配下として佐々成政、不破光治、前田利家にそれぞれ10万石が与えられて府中三人衆と呼ばれた。

成政は小丸城、光治は龍門寺城、利家は府中城を築城して居城としている。築城に際して総社大神宮を移転させて用地を確保した。東に流れる日野川を天然の外堀とし、2重の堀を巡らした平城を築いている。利家は天正9年(1581年)に能登一国が与えられるまでの約6年間を正室のお松や子供たちとここで暮らしている。

利家の後は嫡男の利長が城主となったが、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで利長は加賀松任に移封となり変わって丹羽長秀に越前国を中心に123万石が与えられた。しかし天正13年(1585年)に長秀が死去すると丹羽家は減封となり、羽柴秀吉の家臣であった木村重茲が12万石で城主となる。文禄元年(1592年)の文禄の役では3千5百の軍勢を率いて朝鮮に渡海しており、その功績で山城国淀へ18万石の加増移封となった。

これに伴って青木一矩が城主となるが国入りしたのは文禄4年(1595年)とされている。というのも同年に秀次事件で重茲が秀次を弁護した事から連座の刑に処せられ、摂津国茨木の大門寺で自害しているためだ。嫡男・高成も境内の法花堂で切腹・梟首となり娘も磔となっている。なお諸説あるものの、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死する木村重成は重茲の子と言われている。

青木一矩の母は秀吉母・大政所の妹(または姉)であり秀吉とは従兄弟にあたる。慶長2年(1597年)には豊臣性を授かっている。翌年に秀吉が死去すると同じく従兄弟である福島正則と共に後継者である秀頼の名代を努めた。

ここで話が少し戻り、秀吉死去の直前に朝鮮出兵での不手際を問われた小早川秀秋が筑前国名島30万7千石から越前国北ノ庄15万石への減封を命じられていたが、慶長4年(1599年)、徳川家康によってこの減封は取り消された。そのため一矩に北ノ庄20万石が与えられる事となる。府中城は同年に隠居した遠江国浜松の大名であった堀尾吉晴に隠居料5万石として与えられた。

翌年の関ヶ原の戦いで一矩は西軍に属したが病床にあったため出陣できず、東軍である前田氏の抑えとして北国口に留まっていた。やがて西軍が敗北すると前田軍は鳴鹿川(竹田川)を渡河して進軍してきたが、その最中に一矩は死去し青木家は処分が下らぬまま改易となっている。

その後、戦後処理のため家康家臣の保科正光が2ヵ月ほど北ノ庄や府中で内政を行っていた。やがて家康次男である結城秀康が越前国北ノ庄68万石を与えられて国主となり、重臣・本多富正が3万7千石で府中城主となった。富正の父、重富は「鬼作左」として知られた本多重次の兄である。
慶長11年(1606年)、秀康が34歳の若さで死去。この時、家中では殉死者が相次いだが富正は秀康の名代で駿府城改築の指揮を執っていたため殉死を行えずにいた。これを見た江戸幕府は2代将軍・秀忠が近藤季用を特使として派遣し、大御所・家康や幕閣・本多正純の署名がなされた書状を送って福井藩重臣を始め特に富正の殉死を固く禁じたため剃髪するに留まっている。

富正は幕命により越前松平家を継いだ幼君・松平忠直の補佐を命じられ、慶長16年(1611年)には秀忠娘・勝姫が忠直に嫁いでいる。福井城へ向かう道中、府中城で勝姫の化粧直しが行われた。その後も越前騒動が勃発したり、3代将軍・家光から府中藩独立を進められているが富正は福井藩の国家老としての役職に徹し、慶安2年(1649年)に府中城にて死去。享年78。富正には子がなく、本多成重の子を養子として迎え以後明治まで本多氏が領主を勤めている。

富正は入府以来、治水や開拓を始め産業の保護育成や学術奨励など善政を行って領民から名君と敬称され、その治世は歴代の本多氏によって継承されていった。
6 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する