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2019年02月17日22:41

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平島城

平島城は築城年不明ながら「尾張志」「府志」によると水野成政が城主であったと伝わっている。また「池田家家系図」「荒尾家系」によると織田家の重臣であった池田恒興が城主であったとされており、荒尾善次の娘、善応院を妻とし間に長男・元助、次男・輝政を設けている。

善次は知多郡の大野城主であった佐治為貞の子であったが今川義元と戦って戦死した近隣の木田城主、荒尾空善の家督を継いで荒尾性を名乗った。その後も織田信長に従って木田城において今川軍と対峙していたが功治元年(1555年)、義元の尾張侵攻に屈してこの地域の多くの諸豪族と共に今川氏に属する事となる。しかし永禄3年(1560年)に義元が桶狭間の戦いで戦死すると今川氏を離脱するも織田氏に戻るのも偲びないとして隠居した。

家督は長男の善久が継いだが元亀3年(1572年)に三方ヶ原の戦いで戦死し、次男の成房が後継者となる。天正3年(1575年)、長篠の戦い後に姉を頼って池田家に仕え輝政が三河国に移封された際は牛久保城代、播磨国に移封された際は龍野城代として1万石を領している。荒尾氏の子孫はその後も代々池田家の元で鳥取藩家老、米子城代などを務めている。平島城は池田氏や荒尾氏に関連があったようだが詳細は不明。
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