mixiユーザー(id:52595329)

2019年02月17日22:39

254 view

横須賀御殿

寛文4年(1664年)、尾張藩2代藩主、徳川光友が当時「馬走瀬(まはせ)」と呼ばれていた漁業盛んな海辺の集落に潮湯治(しおとうじ、海水浴)のために造営した別荘「臨江亭(りんこうてい)」である。元は尾張藩士であった滝川時成の隠居屋敷があったが光友は知行替えを行って造営に着手。完成に2年を要し、通称、横須賀御殿と呼ばれていた。これに合わせて周囲の町も碁盤の目状に整えられて地名も横須賀に改称され町方と呼ばれるようになった。御殿の北部には回遊式庭園「御洲浜」があった。御洲浜の庭園との間は全体を木作で囲み内側には松並木が通っていた。

光友は初代義直の漢学志向に対して国学志向を好み、公武合体を夢見ていた。そのため当時の宮廷文芸の場であった桂離宮や修学院離宮に相当する別邸を領内に設けて遊興していた。この地は伊吹山から伊勢湾を一望できる景勝地で名古屋城内の下深井御庭以上の雄大なスケールを誇るデザインであり、後水尾天皇が好んだ修学院離宮に似た施設であった。

光友は何度もここへ訪れていたようであるが、元禄13年(1700年)に彼が亡くなり、正徳5年(1715年)に災害によって壊滅的被害を受けてしまったため取り壊された。しかし天明5年(1785年)に代官所が設置され知多半島西岸の行政中心地として栄える事となる。

代官として新藤四郎左衛門、斉藤弥平が務めていたが文化元年(1804年)に一旦廃止となり、鳴海代官の支配下に置かれる。しかし文化8年(1811年)に復活し明治まで16人の代官が続いた。明治維新によって廃され、取り壊されているが明治28年(1895年)には早くも現地民の手によってかつてを偲ぶ石碑が建立されている。
6 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する