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2019年02月17日22:37

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今川塚

一泊後、これまで訪れた事のない東海市や大府市方面を目指しました。

永禄3年(1560年)、織田信長と今川義元が激突した桶狭間の戦いで義元は戦死し今川軍は総崩れとなる。将兵たちは領国へ辿り着いた者、途中で討たれた者、尾張国や三河国内で新たに生活を始めた者もいたそうである。

東海市にある今川塚はそんな落武者伝説の1つである。合戦後に横須賀村へ逃げてきた兵士たちは当時この地にあった永昌寺(現在は消滅)に義元の遺体を埋葬し守備と供養のためにこの地へ残った。現在周辺に住む「早川」「北川」の姓を名乗る人たちはその子孫と伝わっている。当時、織田氏の支配地域であったこの地に堂々と墓を造るわけにもいかず墓碑には「今川義基墳」と違う字を使用している。

東海市内には十二塚という地名も残っており、当時姫島村と呼ばれていたこの地に今川軍の落武者12人が瀕死の状態で逃れてきたもののこの地で亡くなったため埋葬されて12の塚が作られたため十二塚の地名が出来たがその塚は今は残っていない。

また江戸幕末の元治元年(1864年)、常滑の今谷要蔵という船頭が伊勢湾で難破しかけた時日頃から信仰していた「今川さん」に助けを求めた所無事に変える事が出来たためお礼として今川塚周辺の土地21坪を買い上げて祠を建立し、供養料として10両を奉納した。

愛知県内にはこうした義元の墓石がいくつもある。
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