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2019年01月20日22:11

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杉山端城

先の新城古城で登場した永禄5年(1562年)の石田合戦に勝利した菅沼定氏は野田城の菅沼定盈と共に岡崎城の松平元康の配下であった。これと同時に元康は菅沼氏の本拠である田峯城を安堵しており、定氏は石田城を廃城として新たに杉山端(すぎやまは)城を築城して居城とした。土塁で四方を囲っただけの侍屋敷であったらしい。周りは家臣屋敷が取り囲んでいた。「端城」についてはいくつか解釈があるようだが主に「支城」の意味があるらしい。田峯城に対する支城という位置づけであったと思われる。また当初の居城であった大谷城を「御城」。石田城を「新城」杉山城を「端城」と呼んで段階的に区別していたようだ。

元亀元年(1570年)、三河国へ侵攻した甲斐の武田氏を前に田峯城の菅沼本家は武田氏に従属せざるをえなかった。しかし定氏は徳川氏に残る事を決意し武田・徳川どちらが滅んでも菅沼家が残るよう図ったともされている。関ヶ原における真田氏と同じ小豪族の苦肉の策だ。

同年、定氏は道目記(どどめき)城を築城して新たな居城とした。しかし杉山端城は廃せずに維持していたようである。元亀二年(1572年)、武田信玄は遂に西上の軍をお越し三方ヶ原で徳川軍を壊滅させると東三河に侵攻する。定氏は家康の本拠である浜松城に出向いており、道目記城や杉山端城といった菅沼氏の城は家臣の今村氏、石田氏、今泉氏、塩瀬氏といった武将たちが守備していたが武田軍の威圧を前に屈しほとんどが無血開城したようである。信玄は杉山端城を拠点に野田城の攻略に取り掛かったが急遽軍を引き換えし、その途上で病死に至った。

その後、武田家を継いだ勝頼は天正3年(1575年)に長篠・設楽ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を前に大敗。戦後、この戦いの中心となった長篠城主であった奥平信昌が新城城を築城して居城とし、杉山端城はその支城となった。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一で家康が関東へ移封となると奥平氏もそれに従い、変わって池田輝政が三河国に入封。杉山端城は新城城代となった池田家家臣、片桐半右衛門の支配下となり高木氏が城代となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで池田氏は播磨国へ移封となり、この地は井道(杉山端城から東に2キロ先)に代官所を置いた菅沼三照が領し、杉山端城は菅沼藤七が城代となった。

慶長10年(1605年)、水野氏が新城城主となると山口弥右衛門が城代となったが、正保2年(1645年)に水野氏が上野国へ移封されると廃城になった。

城跡には石碑のみで遺構はない。石碑の横にたつ祠には「永禄五年二月四日 菅沼十良兵衛定氏」の名が刻まれていた。この年は築城年なので当時からの物だと思うと感慨深い。なお戦前までは90m四方の土塁と堀が残って竹藪に覆われていたそうだが、狐が何匹も住み着いていて近所に住む人への害があったため城址の遺構を破壊せざるえなくなったそう。そしてこの地には伏見稲荷があり、破壊にあたって移転するのと共に狐の巣穴から食した動物の骨が大量に出てきたため万福寺の住職に頼んで供養をしてもらったが、この作業にあたっていた人は毎夜胸を押さえつけられる苦しい日々が続いたと言う。
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