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2020年02月26日10:14

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インド53〜中後期密教、仏教の衰滅とヒンドゥー教の隆盛

●仏教の密教化(続き)

・中期密教〜『大日経』と『金剛頂経』
 650〜700年頃、密教を代表する経典が成立した。『大日経』と『金剛頂経』である。これらの経典を以って、密教は中期密教の時代に入る。わが国では、中期密教を純正なものとし、純密(純粋密教)と呼ぶ。
 『大日経』は、インド中部で成立したと見られる。正式名称は『大毘盧遮那成仏神変加持経』という。『華厳経』は釈迦が悟りの内容を表した経典だが、『大日経』は大日如来が宇宙の真理である法を説く形式を取っている。すなわち、主役が釈迦から大日如来に代わっている。
 仏教では、人間の行為(業)は、身体的な活動である身業、言葉を発する活動である口業、心の活動である意業の3つに分ける。これらを総称して三業という。『大日経』では、大日如来の活動は不思議であることから、密と呼ぶ。その活動は身体・言葉・心の三つの活動として現れるとして、三密と呼ぶ。そして、人間の三業は、その隠された本性においては、大日如来の活動に他ならないとし、これを衆生の三密という。
 人間の三密と大日如来の三密は交流し、一つの活動となり得るとする。小宇宙である人間の活動と大宇宙である大日如来の活動が一体化した状態を目指して、瑜伽(ヨーガ)行を行う。この行法を三密行と呼ぶ。三密行は、身密、口密、意密の行を実践するものである。
 身密行とは、手に印契(ムドラー)を結ぶ儀礼である。印契は手の動作であり、一定の意味を持つ指の組み合わせである。口密行とは、口に呪文を唱える儀礼である。呪文は、長いものは陀羅尼(ダーラニー)、短いものは真言(マントラ)という。ヴェーダには、病気治癒・除災・長寿等を祈願する呪文が多く含まれている。密教の陀羅尼・真言は、それらに類似している。意密行とは、心に本尊を観念することである。密教の本尊すなわち諸仏の中心に置かれる仏は、大日如来である。本尊の観念とは、この信仰・祈祷の対象を心に思い浮かべる観想である。
 これらの三密行を実践することによって、修行者は自己と大日如来が一体化する境地を目指す。基本的な思想は、ヒンドゥー教における梵我一如、神人合一によく類似している。いわば仏我一如、仏人合一である。
 観想においては、マンダラが修行の道具として用いられる。『大日経』に基づくマンダラは、大悲胎蔵生曼荼羅、略して胎蔵界曼荼羅という。大日如来を中心として、諸仏諸尊が配置された図である。胎蔵界とは、母親が胎児を育むように、人間の仏性を育て、目覚めさせる仏の慈悲の世界を象徴したものと解される。
 『大日経』に続いて、7世紀後半に『金剛頂経』の中心部がインド南部で成立した。経典の名称の金剛頂とは、経典のなかの最高のものを意味する。この経典では、釈迦は金剛界如来とされ、如来が金剛界三十七尊を出生したとしたり、秘密の儀礼を詳細に述べたりする。金剛とはダイヤモンドのことであり、金剛界とは、ダイヤモンドのように堅固で壊れることのない仏の智慧の世界を象徴したものと解される。
 『金剛頂経』は、ヨーガの行法として、五相成身観(ごそうじょうしんがん)を説く。これは5段階からなり、自分の心の観察に始まって、心を集中し、ダルマ(真理)を観念する行法である。こうした行法を観法という。究極的な観法を、入我我入観という。これは、大日如来が我の中に入り、我が大日如来の中に入ると観想することである。それによって、大日如来と自分が一体であるという悟りを目指す。この考え方は、梵我一如の思想と非常によく似ており、仏教のヒンドゥー化の極致といえる。
 『金剛頂経』に基づくマンダラは、金剛界曼荼羅という。胎蔵界曼荼羅と同じく、大日如来を中心として、諸仏諸尊が配置された図である。ただし、構図が異なる。シナでは、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は相補うべきものとされた。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を合わせて、両界曼荼羅という。慈悲と智慧、女性的なものと男性的なものという対立物の一致、両極の融合を見ることができる。陰陽の思想の影響だろう。
 密教の経典の重要なものとして、上記の2種の他に『理趣経』がある。大日如来が真実の智慧すなわち般若の極致である理趣は、愛欲や欲望を汚れないものとする一切法自性清浄であると説き、その悟りを目指す即身成仏について述べている。
密教は、シナ、日本等に伝えられた。シナでは8世紀に衰退したが、恵果に学んだ空海がわが国で真言宗を開いた。最澄による天台宗の台密に対して、東密と呼ばれる。

・後期密教〜タントラ仏教
 7〜8世紀以降にインド南部で、タントリズムと呼ばれる宗教集団が盛んになった。タントリズムは、タントラという経典を奉じる集団の総称である。ヒンドゥー教において、シャクティ派からほかの宗派に影響が広がった。それらの経典は、呪術的・神秘主義的性格が強く、また現世の快楽や性愛を積極的に肯定する。
 タントリズムの影響は、仏教にも及んだ。8〜12世紀にかけて、密教とタントラの思想が融合したタントラ仏教が興隆した。人間の煩悩や愛欲は抑制されるべきではなく尊重されるべきであるとした。これを後期密教という。後期密教は、教勢の衰えいく仏教の中で主流を占めるようになったものの、ヒンドゥー教のタントラ教と変わらなくなり、やがてインドから姿を消した。
 タントラ仏教は、日本には入らなかった。チベットには8世紀末にパドマサンババによって伝えられた。民族宗教のボン教と習合してチベット仏教(ラマ教)となった。

●仏教の衰滅とヒンドゥー教の隆盛

 大乗仏教以降のインド仏教の歴史は、数世紀にわたる仏教の有神教化及びヒンドゥー化の過程だった。ヴェーダの宗教から出現した仏教が有神教化し、さらにヴェーダの宗教が発達したヒンドゥー教から逆に影響を受け、ヒンドゥー化した。多神教的な性格を強めた仏教は、積極的にヒンドゥー教の神々や儀礼を採り入れた。これによって密教化した仏教は、一段とヒンドゥー化を深め、ヒンドゥー教と融合し、やがて衰滅していった。
 インド北部では、7世紀半ばにヴァルダナ朝が滅亡した後、13世紀までラージプートと呼ばれる地域的な諸王朝が興亡する分裂時代が続いた。この間、イスラーム勢力が侵入を繰り返し、13世紀にはインド東部にまで勢力を広げた。イスラーム教徒は、各地で仏教の寺院を破壊した。1203年に、当時仏教の最後の拠点だった密教のヴィクラマシーラ寺院が滅ぼされた。これを境に、インド仏教は消滅した。
 仏教は、一方ではヒンドゥー教に大きな影響を及ぼしもした。ヒンドゥー教最大の学派であるヴェーダーンタ学派は仏教、特に唯識説の影響を受け、一切の現象は識の顕現であると解釈するようになった。その学派を代表するインド最大の哲学者シャンカラは、仏教を深く研究して独自の思想を説いたので、「仮面の仏教徒」と呼ばれる。シャンカラをはじめとするヒンドゥー教の哲学者によって、仏教の教義の相当部分がヒンドゥー教に摂取された。ヒンドゥー教は、共通の土壌であるヴェーダの宗教から現れた仏教を、旺盛な同化力を以って包摂してしまったのである。今日、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされている。その一方、インド独立後、カースト制に苦しむ不可触賤民(自称ダリット)約50万人が仏教に改宗したことで、仏教がインドで復活した。彼らは、新仏教徒と呼ばれる。

 次回に続く。

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