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2019年02月16日08:49

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キリスト教161〜ゾシマ長老の死

●ゾシマ長老の死

 『カラマーゾフの兄弟』で私が最も重要と考える部分は、第7篇第一の「腐死の香」である。
「大審問官」の章でイヴァンにカトリック教会の堕落を語らせたドストエフスキーは、この章で、ロシア正教会の長老ゾシマの死について書く。ゾシマは、アレクセイの修道院の長老である。長老とは、ロシア正教会において、精神的に優れていると認められ、精神的指導を行う年長者をいう。ゾシマは、高位の修道士であるスヒマ僧である。謙虚で優しく高潔な精神と深い信仰心を持ち、他の教会関係者や世俗の人々から尊敬を集めている。荒野修道院で修行した聖人ザドンスクのティーホンと長老アンヴロシイがモデルとされる。
 高齢のゾシマは、病気のために死亡する。彼の臨終に前後して、「ある聖人は死んだ後、遺体から腐臭が漂うことなく、それどころか芳しい香りしたらしい」という話が流れる。そして人々は、身分、貧富を問わず、「ゾシマ長老もそのような奇跡を起こすかもしれない」という期待を抱く。しかし、期待に反して奇跡は起こらず、夏の暑さの中、ゾシマの遺体は、普通の場合より早く、ひどい腐臭を放つ。人々は動揺し、神の罰が現れたと考え、長老の高徳を疑い始める。
 動揺する人々に対し、ゾシマの弟子ヨシフ主教は「聖者の遺体は腐敗すべきものではないという考えは、正教の教えではない」と反駁する。だが、「神様のお裁きなのだ」という声が次第に大きくなっていく。
 葬儀は何とか場を取り繕いながら進行するが、そこに突然、苦行僧フェラポントが乱入する。まえまえからゾシマの批判者だったフェラポントは、ゾシマを罵倒し、狂ったように悪魔だと告発する。民衆は、腐臭によってゾシマへの尊敬心を棄て、フェラポントを喝采する。神に祝福されるべき聖人は、逆に神に呪われた者だった。強烈な腐臭がそのしるしだと見なしたのである。失望、侮蔑、猜疑の漂うなか、葬儀は進んでいく。
 ゾシマを敬愛するアレクセイは、一部始終を目の当たりにし、それまで不動だった信仰心が揺らぐ。そして、兄イヴァンの「僕は別に、神さまに反乱を起こしているわけじゃない。ただ神が創った世界を認めないだけさ」という言葉を口にして、ゆがんだ含み笑いを浮かべる。
 私が特に注目するのは、ここまでの件である。なせそう考えるかについては、後ほど述べる。先に物語の続く部分について簡単に書く。
 信仰が動揺したアレクセイは悪友の誘いに乗って、グルーシェンカのもとを訪れる。父と長兄の争いの種になっている身持ちの悪い女である。彼女は、アレクセイに「ネギ一本」の民話を語る。地獄に堕ちた意地悪な老婆の話である。グルーシェンカは、自分もその老婆のように意地の悪い女だと言って泣き出す。アレクセイは、娼婦のような女に宿る信仰心に打たれる。そして、ゾシマの遺体が安置されている庵室に戻る。
 アレクセイは、うたたねののうちに聖書の「カナの婚宴」の夢を見る。婚礼に招かれたキリストが水をぶどう酒に変える奇蹟を起こした場面である。夢の中でアレクセイは、長老ゾシマから語りかけられる。「われわれには限りなく慈悲深いあのお方が見える。客の喜びが尽きないように、水をぶどう酒に変えて、新しい客を待ち受けている。永久に絶えることなく、新しい客を招いておいでになる」――そう長老が語ったところで、アレクセイは目が覚める。そして、ふいに大地に身を投じ、泣きながら接吻する。そして、自分は大地を愛する、永久に愛する、と誓う。再び立ち上がった時、彼はもはやか弱い青年ではなく、生涯揺らぐことのない堅固な力を持った一個の戦士となっていた。―――大体、こういう展開である。
 このように「腐死の香」の章では、アレクセイはゾシマの死を通じて、大きく成長することが描かれている。アレクセイが身を投じたのは、ゾシマの遺体に対してではなく、キリストの聖像に対してでもない。大地に対してである。そして、この後、彼が向かうのは、修道院での修道生活ではなく、民衆が生きる現実の社会である。ここから、ドストエフスキーの信仰が聖書だけでなく大地に根差したものであり、また彼の思想が民衆と生命をともにするものだったことが読み取れよう。
 さて、私がこの「腐死の章」で特に注目するのは、長老ゾシマの死に際して、遺体に奇跡が起こることを民衆が期待することである。キリスト教では、遺体が腐敗せずに残ることを聖人である証明の一つとみなすことが伝統的な見方となっている。ロシア正教でも同様であることが、民衆のゾシマへの期待によってよくわかる。ロシア正教では、4世紀の神学者、修道士のヨハネス・クリュソストモスは「身体は神の被造物であるが、罪によって死と腐敗がその内に注入されたのだ」という思想が影響を与えてきた。死と腐敗は、罪によるものという考え方であり、罪に打ち勝つことができれば、遺体は腐敗せず、神の恩寵が示されるという考え方である。罪に打ち勝つ奇跡が起れば、その実証を見て民衆は死者を尊崇する。逆に腐敗が早く進行すれば、その実態を見て、民衆は落胆し、死者を侮蔑する。これらは、どちらも素直な反応である。
 だが、死後遺体が腐敗せず、死臭も現れないという現象は、希な現象である。さらに死後長時間、体温が冷めず、死斑も現れず、時間がたつに従って顔が崇高な相貌に変わっていく現象を、大安楽往生現象という。大安楽往生現象は、カトリック教会、ロシア正教会等のキリスト教だけでなく、ヒンドゥー教、仏教、道教等にも少数ではあるが、歴史的な文献に記録が見られる。ただし、聖人・高層においてさえ、極めて希な出来事である。一生修行に打ち込む生活をし、徳を積んだ者であっても、ほとんど体験できないのが、大安楽往生である。大安楽往生については、概要の項目に書いたので、参照願いたい。ドストエフスキーは、その実例を自分で見た体験がなかったのだろう。もし彼が自分で大安楽往生を実際に見たことがあったならば、ゾシマの死とアレクセイの成長の場面の記述は、大きく変わっていたに違いない。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/85eaa80d842dba230ac38ec805853382

 次回に続く。

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