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2019年01月19日08:50

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キリスト教149〜ティリッヒ:「神を越えた神」の神学を説く

●ティリッヒ〜「神を越えた神」の神学を説く

 パウル・ティリッヒは、1886年にルター派教会の牧師の息子としてドイツに生れた。大学で哲学と神学を学び、シェリングに関する学位論文を書いた。一時社会主義思想に共鳴し、フランクフルト学派の成立に寄与した。1933年、ヒトラー政権の誕生によって大学教授の職を追われると、アメリカに移住し、プロテスタント系のユニオン神学校の教授となった。
 ティリッヒはキリスト教の神学者でありながら、プラトン、ドイツ観念論、実存主義、深層心理学等を摂取し、神学と哲学の統合を図った。そのため、彼の神学は、哲学的神学と呼ばれる。キリスト教は古来、異教による非難・攻撃に対してキリスト教の真理を弁明・擁護する弁証論を展開した。ティリッヒの神学はこの系譜に属する。
 ティリッヒは、存在論的形而上学の伝統に則り、存在論的な神学を説いた。彼の神学は、本質的な存在を探究するものであると同時に、現実的な存在を探究するものでもある。現実的な存在とは、可能的な本質が現実化したものであり、これを実存という。実存とは、時間的・空間的に有限な個物的存在である。特に自己の存在を意識する人間的実存をいう。ティリッヒの神学が20世紀及び現代の神学であるのは、死、運命、無意味さという不安によって脅かされる人間的実存の生き方を説いている点である。そこには、ハイデガーやサルトルの影響が見られる。
 1952年に刊行された『生きる勇気』(The Courage to Be)において、ティリッヒは、大意次のように説いた。存在は、それ自体の中に無を包摂する。万物の根底は、生ける創造性であり、無を永遠に征服しつつ、創造的にそれ自体を肯定する。そのようなものとして存在の根底は、あらゆる有限な存在における自己肯定の原型であり、生きる勇気の源泉である。生きる勇気は、生命力の一つの機能である。生命力の減退は、勇気の減退を引き起こす。生命力を強化することは、生きる勇気を強化することを意味する。
 神とは、「存在それ自体(being-itself)」である。存在を最もよく表現するためには、「存在の力(power of being)」という比喩を用いざるを得ない。力とは、一つの存在が、他のさまざまな諸存在の対抗に打ち勝って、自己自身を実現するべくもっているところの可能性である。
 信仰とは存在それ自体の力によってとらえられている状態であり、存在の力の経験である。そしてこの存在の力が、存在者に生きる勇気を与える。絶対的信仰の内容は、有神論的な神観念を超えた「神を越える神」(God above God)である。生きる勇気の究極的源泉は「神を越える神」にある、と。
 ティリッヒは『生きる勇気』で上記のように神と実存の探究を進めたが、彼の神学は、決してキリスト教の神観念を抜け出るものではない。1951年から63年にかけて刊行された主著『組織神学』で、ティリッヒは、存在それ自体としての神を「三位一体の神」としてとらえる立場から、組織的・体系的な神学を展開している。本書は、父と子と聖霊の三位一体説に立ち、各位格に対応して「存在と神」「実存とキリスト」「生と聖霊」の3部で構成され、序章として「理性と啓示」、終章として「歴史と神の国」が付加されている。
 キリスト教は、人間は天の父である神の似像として創造されたが堕落し、神の愛によってイエス=キリストを通じて救済されるという教えである。ティリッヒは、この教えの構造を、<本質→実存→本質化><同一性→分離→再結合>という弁証法的な運動によって表現する。この運動は、根源的同一性である神が外化して、再び自己に還帰する歴史である。人間における本質から実存への展開は疎外であり、疎外された状態にあることが、実存的不安である。
 こうした弁証法的な歴史理解は、ヘーゲルの哲学に基づいている。ヘーゲルにおいて、弁証法的とは、神の原初的同一性が疎外(外化)され、これが止揚されてより高い同一性に還帰するという過程的な構造をいう。ヘーゲルの弁証法は、基本的に本質と存在の一致に基づく本質主義の哲学である。これを批判し、人間的実存の立場に立つ実存主義の哲学を説いたのが、キルケゴールであった。ティリッヒは、実存主義を継承しつつ、これを本質主義と総合することを試みている。そこで、彼が依拠するのは、父と子と聖霊の三位一体である聖書の神である。
 ティリッヒはキリスト教の主流が教義としている三位一体の神を神とするが、同時にティリッヒは、神を「無制約なもの」「存在の根底」「存在の根拠」などとし、真の神は「神を超えた神」であると説いている。これは、神を、宇宙をその外から、また無から創造した超越神であると同時に、宇宙全体、一切万有そのものとしての宇宙神でもあるというとらえ方である。このとらえ方は、正統的な超越神論とシェリング、ヘーゲル等の汎神論の総合を試みたものになる。西田幾多郎の概念で言えば、超越的即内在的な神を説く万有在神論の一形態といえよう。だが、決してキリスト教の枠組みを抜け出るものではない。存在論的かつ汎神論的な議論を展開しつつも、常にその焦点は、聖書の神、そしてイエス=キリストにある。
 『組織神学』の終章「歴史と神の国」において、ティリッヒは、現実の世界で歴史的に生きる実存の課題の解決を試みながら、その課題に答えられず、神の国の到来を待望する。その終末論的な思想はイエス=キリストの再臨を想定するものであり、ティリッヒの神学は、遂にキリスト教の内にとどまるものに終わった。
 ティリッヒは、1965年に死去した。その神学は、キリスト教が他の宗教を包摂する理論とはなり得ず、また、古代から幾度も分裂を続けてきたキリスト教を再統合し得るものとさえなっていない。

 次回に続く。
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