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2017年04月13日09:36

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ユダヤ37〜イギリスでのユダヤ人の自由と権利の拡大

●イギリスでのユダヤ人の自由と権利の拡大
 
 ユダヤ人が自由と権利は、オランダに続いて、17世紀のイギリスにおいて市民革命を通じて拡大された。
 イギリスでは、先に書いたように1290年にユダヤ人が追放された。以後、公式に追放令が撤回されることはなかったが、わずかながらずっとブリトン島に住み続けたユダヤ人もいた。例えば、エリザベス1世の金主はセファルディムのユダヤ人だった。女王の医者ロドリゴ・ロペス博士もユダヤ人だった。ロペスはユダヤ人を標的にした魔女狩りの餌食となり、1593〜4年に反逆罪で裁判を受けた。
 17世紀後半になると、イギリスでは事実上、ユダヤ人の居住が再び認められ始めた。それは彼らの経済的能力への評価によるものだった。もともとイギリスのユダヤ人追放は宗教的ではなく経済的な理由だった。経済的に役立つということになれば、実利的な目的でまた居住を認めることになったわけである。1649年のピューリタン革命、1688年の名誉革命は、イギリスのユダヤ人の地位を大きく変え、また西欧におけるユダヤ人の自由と権利を拡大する端緒となった。
 ヨーロッパ初の市民革命であるピューリタン革命は、ユダヤ人に対する政策が再検討されるきっかけとなった。清教徒たちは、英訳の旧約聖書を読んで、ユダヤ人に尊敬の念を持つようになった。オリヴァー・クロムウェルは、ユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断をし、寛大な政策への道を開いた。クロムウェルの軍隊は、ユダヤ人から資金を得ていた。
 ユダヤ人の側では、アムステルダムの学者メナシェ・ベン・イスラエルが、イギリスで1649年に国王チャールズ1世が処刑されたのを見て、ユダヤ人がイギリスへの入国を勝ち取る良い機会だと考えた。1655年9月メナシェは自らロンドンへ乗り込み、護国卿となったクロムウェルに請願書を提出した。クロムウェルは請願書に理解を示し、議会に提出した。議会に小委員会が設置され調査されたが、条件が決まらなかった。すると、クロムウェルは小委員会を解散し、1656年にユダヤ人の移住を認めた。それによって、イギリスのユダヤ人社会が復活した。当時のイギリスは重商主義政策によってオランダ、スペイン、ポルトガルと激しい貿易戦争を展開していた。これに勝つためにユダヤ人の能力を必要としたのである。
 王政復古後のチャールズ2世も同様にユダヤ人に対して正式に居住を認めた。理由は、イギリスの商人を守るよりユダヤ人を保護する方が、経済的にずっと大きな利益が得られると判断したからだった。
 名誉革命は、さらにユダヤ人の地位を高めた。この革命は、オランダからオレンジ公ウィレムを招聘して、国王を交代させたが、そこにはユダヤ人の関与があった。1688年ウィレムが英国に出兵する際、オランダのユダヤ人ロペス・ソアッソ一族が経費として200万グルデンを前貸しした。名誉革命は、オランダのユダヤ人の資金提供がなければ、成功し得なかった。ウィレムが新英国王ウィリアム3世になると、大勢のユダヤ人金融業者がロンドンに移り住んだ。17世紀末までに、ユダヤ人は正式にイギリスに住むことが出来るようになった。
 名誉革命を通じて、国際金融の中心は、アムステルダムからロンドンに移った。ロンドンではウィリアム3世の治世に銀行業や金融市場が発達した。その創設にはユダヤ人が関った。その後のシティの繁栄は、ユダヤ人の知識・技術・人脈によるところが大きい。また、経済能力の高いユダヤ人が多数移住したイギリスは、資本主義発達の最先端地域となって発展していった。
 イギリスで市民革命が起った17世紀中後半の時代のヨーロッパでは、プルボン朝のフランスが強大だった。ブルボン朝はハプスブルグ家と抗争しつつ王権を強化し、ルイ14世時代に絶頂期を迎えた。ルイ14世は「朕は国家なり」の句で知られる絶対君主の典型である。大陸を軍事的に制圧するルイ14世は、イギリス、オランダと国際政治・国際経済の主導権を争い、4次にわたり絶対主義戦争を繰り返した。すなわち、南ネーデルランド継承戦争、オランダ侵略戦争、ファルツ継承戦争、スペイン継承戦争である。
 フランスに対抗して大連合が組まれ、1672年からオランダ統領のウィレムが連合軍を指揮した。彼は、名誉革命後は英国王として指揮を続けた。戦いは連合軍の勝利となり、ルイ14世の支配は打ち砕かれた。この戦いにおいて、資金と食糧を調達したのは、主にユダヤ人グループだった。ユダヤ人にとって戦争や革命に資金を提供することは、自らの富を増加することになるだけでなく、自らの自由と権利を拡大していくことにもなっていた。
 ところで、ピューリタニズムは、カルヴァン派プロテスタンティズムのイギリス版である。彼らは、旧約聖書を通じてユダヤ教の影響を受けた。マックス・ウェーバーは、この点に注目し、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に次のように書いている。「すでに同時代の人々をはじめとしてその後の著述家たちが、とりわけイギリスのピューリタニズムの倫理的基調を『イギリスのヘブライズム』と名づけているのは、誤りなく解するなら、まさに正鵠をえたものである」と。
 ウェーバーは、ユダヤ人とピューリタンの経済思想の関係について、次のように述べている。「ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する冒険商人的資本主義の側に立つものであって、そのエートスは、一言にしていえば、賤民的資本主義のそれであったのに対し、ピューリタニズムの担うエートスは、合理的・市民的経営と労働の合理的組織のそれであった。ピューリタニズムはユダヤ教の倫理から、そうした枠に適合するもののみを採り入れたのである」「イギリスのピューリタンたちにとっては、当時のユダヤ人はまさしく彼らの嫌悪してやまぬ、あの戦争・軍需請負・国家独占・泡沫会社投機、また君主の土木・金融企画を指向するような資本主義を代表する者であった」「ユダヤ人の資本主義は投機的な賤民的資本主義であり、ピューリタンの資本主義は市民的な労働組織であった」と。
 私は、ウェーバーのこの見方に基本的に同意するが、ウェーバーは重要な点を軽視していることを指摘したい。名誉革命後、オランダから移住したユダヤ人がロンドンを国際的な金融の中心地とした。そして、ピューリタンによる合理的な経営方法と労働組織は、ユダヤ人が作った金融システムが機能しているからこそ、資本主義的な生産活動を拡大させることができたことである。このことは、18世紀半ばからの産業革命によって、巨額の資金が必要になればなるほど重要な意味を持つようになっていったのである。
 近代西洋の歴史を振り返ると、ユダヤ人を最終的に受け入れた先は、ほとんど例外なく繁栄した。プロテスタントの宗教的信念が勤労と蓄財を鼓舞したとする説は、資本主義発達の初期の段階には当てはまるものの、長期的に概観すると、ユダヤ人の移住こそが、近代資本主義が発達した地域に共通する著しい特徴となっている。このことの重要性を軽視する経済学・経済史学には、大きな欠陥がある。
 14〜15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルで、17世紀にはオランダのアムステルダムで、17世後半からはイギリスのロンドンで、ユダヤ人は移住するたびに新しい場所で才能を発揮した。ヨーロッパ経済また資本主義システムのその時々の中心地で、ユダヤ人は活躍した。北米、ドイツ等でも移住したユダヤ人が活躍した。20世紀以降、今日まで世界で最も繁栄しているアメリカ合衆国は、イスラエル以外では世界最大のユダヤ人人口を有する国家となっている。
 逆にユダヤ人を差別し迫害する宗派が支配的な国家は、それまでの経済的繁栄を失うか、十分な経済的発展ができない状態を続ける。ユダヤ人に自由と権利を保障し、それらを拡大した国家が大きく発展しているという事実は、キリスト教とユダヤ教の関係という観点から見れば、キリスト教がユダヤ教に寛容を示したり、再ユダヤ教化したり、ユダヤ教徒の信仰活動を保障したりした地域が、経済的に発展してきていることを示している。この現象は、西方キリスト教社会におけるユダヤ的価値観の浸透・普及を示すものである。

 次回に続く。

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