学生時代に読んだ詩を、自宅にこもりながら読み返している。
吉野弘さんの「祝婚歌」は前日に書いたとおりである。
新川和江さん、川崎洋さんなどまだまだあるけれど、その中でも今にピッタリの詩がある。
これからのアフターコロナは、当分新しい生活をしなければならない。
そのときに必要なのは、何より意識と想像力のような気がする。
感染拡大予防の意識、そしてそれをどのように遂行するかの想像力。
その二つを合わせたものを1言で言うなら、感性だと思う。
茨木のり子さんの「自分の感性くらい」は学生時代に読んで身体中に電気が走った作品です。
自分の感受性くらい 茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
この作品は彼女が50歳になってからの作品だが、内容はまるで20歳のような作品だ。
そして、いままた改めて自分も同じくらいの歳になって読むと、感慨もひとしおだ。
いろいろな人生経験を積んできたつもりになっていたが、読んだ当時とあまり変わっていない感性に気づいて、嬉しいやら悲しいやら。
自分の感性くらい、自分で守れ、ばかのもよ
いくつになっても忘れてはならない言葉だと思う。
明日もまた、茨木のり子さんの作品をご紹介します。
※茨木のり子さんは1926年に大阪で生まれた。
本名は三浦のり子。
高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。
その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で終戦を迎えた。
戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感受性を育んだ。
敗戦の混乱の中、帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。
すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。
1950年(24歳)に結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。
同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。
1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。
2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。
それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。
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