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2019年08月18日10:02

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無事草

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「今日も1日何事もなく、無事な1日でありますように」
毎朝心で唱えています。

若い頃はとにかく毎日何かしらのイベントを作り、スケジュール帳を真っ黒にすることばかり考えてましたので、無事な1日なんて考えてもいませんでしたが、この年になると無事が1番になります。

無事草(ことなしぐさ)と言えば、忍草の異称です。
シダの仲間で、土がなくてもよく耐え忍んで育つことから、こう呼ばれるようになりました。
そんな忍草に、昔の人はこれ以上悪いことがおきぬよう、平穏無事の祈りを託してきたのでしょう。

禅語に「無事是貴人(ぶじこれきじん)」と言う言葉があります。
歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。
この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走といわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用しています。

しかし、本来の禅語の意味は少し違うのです。
無事とは、平穏無事の事でもなく、何事も起こらないことではありません。
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。
貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。

私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違たがわぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性というものがあります。
それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。
私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
本当は全て、既に、自分の中にあるです。

「水の中にてかつ(渇き)を叫ぶがこどくなり、長者の子となりて、貧里に迷うにことならず」と白隠禅師坐禅和讃の冒頭にあるのはこの事を言っています。

池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千利休の茶の師である武野紹鴎(たけのじょうおう)に依頼されて花を活けます。

あまりの見事さに感心した紹鴎は、

「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」と尋ねると専応は、

「いろいろの千草にまじる沢辺かな、いう句を頭に描いて花を活けました」と応えます。

沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。
ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
専応も花活(はないけ)に向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を弄ろうするわけでもありません。
造作なく、すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一本一本挿していっただけなのです。

忍草を無事草というのは、飾り気もなく一所懸命咲いているからなのかもしれませんね。

ぱつんも「今日も何事もなく、平穏無事であるように、と言うことと、本来の自分の持っているものがよい形で発現するように」と、毎朝「無事」を祈ります。

いい事は自分の力でつかみとる事ができます。
しかし「無事」は祈ることしかできないのですから。


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