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2019年12月09日20:07

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ソグド人の美術と言語 曽布川 寛 臨川書店 (2011/3/1)


20191209
p.10
石はタシケント出身のソグド人が名乗る姓であり名前の槃陀は先の翟槃陀と同じで、ソグド語でvandak「[神の]しもべ」を意味する。
p.14
それと関係があるかどうか、可汗は玄奘に暑いから印特伽国(インド)には行かないほうが良いと勧めるが、この奇妙な呼び名はソグド語の語形Induk(a)と一致している。
p.15
ところで、玄奘が親しく話をしたというサマルカンドの王はだれだろう。『新唐書』によれば武徳一〇(六二七)年と貞観五(六三一)年に康国王の屈木支が使者を送っているから、彼に違いない。筆者の推定ではこの王の名前はUkurtchamukで、その名前を記した銅銭がペンジケントの遺跡で発見されている。
p.18
ザラフシャン流域のサマルカンドとブハラ(碑文ではnwmyk、漢文史料の「那密」の原語か)、カシュカダリヤ流域のキッシュ、ナクシャブの地名が見え、これらの四都市がシル河を超えた地域と関係をもっていたことが伺える。
p.21
四世紀中頃にはヒオンがササン朝の東方域に現れている。このヒオンも匈奴のことだとされる。第2部でも述べるソグド語の「古代書簡」(三一三年頃)では、四世紀初めに中国に侵入し漢文史料で匈奴と記された民族をKhunと呼んでおり、ヨーロッパに現れたフンと匈奴が同族であるという説の重要な証拠になっている。…それによれば当時のサマルカンド領主の名前はChirthswanであり、ソグド語の名前を帯びている。
p.22
漢文史料でも『魏書』以降には、迷密(マーイムルグ。後の米国)、伽不単(カブダン)、色知顕(イシュティーハン)のようなサマルカンド周辺のオアシス国家の名前が記録される。…
 最近発見された五世紀のものと考えられるバクトリア語の印章には、「神なるUlarg、フンの王、サマルカンドのアフシン」と刻まれていた。…サマルカンドの西にクシャーニヤというオアシス都市(中国では「何国」と呼ばれた)があったことは既に指摘した。その都市の名前は明らかに「クシャーン」から派生しており、キダーラによるソグド支配との関連が推測されている。キダーラのコインにはkidara kusana「キダーラ・クシャーン」とあり、漢文史料にも「居常(=クシャーン)」と表記されていることから、彼らが自らをクシャーンの後裔だと自称していたことが分かるからである。
p.23
 なお、後のアラビア語史料によればサマルカンド王Ghurak(すなわち漢文史料の「烏勒伽」)は、「サマルカンドのアフシンにしてソグドのイフシード」の称号を帯びたという(ぴったり対応するソグド語とアラビア語の表現については大三章参照)。そのアフシンはソグド語ではなく、キダーラ時代に導入された語であったらしい。イフシード(ソグド文字ではアラム語の訓読語詞MLK'によって表記される)のほうは由緒正しいソグド語で、ペルシア語のsahと同様に古代イラン語の*xsayaθyaにさかのぼる。…この記事に見えるソグドの別名「温那沙」はHuna Shah(フンの王)を意味するバクトリア語であると推定される。
p.24
アフガニスタン北部で見つかったとされる銅板の奉納銘文(梵語)は、西暦四九二/三年にヒンドゥークシュ以北の地域を支配したMehama王治下のターラカーン(Talaqan)の王のものであった。そこには同時代の王として、Khingila、Toramana、Javukhaの名前があがっている。このうちKhingilaは罽賓、Toramanaはミヒラクラの父でガンダーラを支配したことで知られていた。
p.25
たとえば本書第5部で曽布川が取り上げる史君墓でも被葬者である史君(ソグド名はWirkak)は、その姓から分かるとおりキッシュ出身だが、祖父阿史槃陀(ソグド名Rashtavandak)の代に中国に来たらしい。
p.26
麹文泰時代の延寿一六(六三九)年の紀年があり、ソグド語でChinanch-kanth「中国人の城邑」と呼ばれる高昌の王は、確かにイルテベルと呼ばれている。
p.29
 先に紹介したグーラクの手紙以外にも、ブハラの王もバクトリアの倶密国(Qumedh、現在のKarategin)の王もおそらく同じ時に唐に援軍を要請している。…
 この中でいっきに緊張が高まったのは、対ソグド対策で軟弱路線を取っていたホラーサーン総督のフダイナ(ソグド語の単語で、原義は「王妃」。ソグド人がつけたあだ名)に代わって、酷烈で有名なアル=ハラシーが就任した七二二年の初夏だった。…その住民構成は貴族(あるいは騎士azatkar)、商人(xwakar)そして職人(あるいは農民か?原文はkarekar「仕事をする人」)であった。
p.30
タシュケント方面のトルギシュやヒッサル山脈の南、現在のドシャンベ付近にいたトルコ系の奚素突厥(ソグド語でxyswと表記される)とも接触していたことがわかる。
p.31
 ペンジケントの王はkhuvuないしはkhutaw「領主」という称号で、文書の紀年はペンジケント王の登位年を基準としていた。
p.32
「王」はMLK'と表記され(∂)khshedhと発音されていた。…
 泥涅師師は先代の篤婆(正しくは裟)鉢提の息子であったが、タルフンは国人が立てたとあるので、世襲によって王になったのではない。…
…一方でソグド語には大臣を意味するwarnikam、vamkeran、maghdhav、anvarzkareという語も知られている。…ムグ文書によればframandharという職があり、王の命令を受けて地方に派遣されている。トルファン出土の契約文書では、高昌国のdhpirpat(「書記長」)が契約の成立を認可している。…
…このように副王の存在が知られ、それに対応するようにムグ文書でも、タシケントの有力者としてnaztghriw「[王の]代理」と呼ばれる者が言及されている。
p.35
七世紀初めのシシュピル(世失畢)王のものが初めで、八世紀中頃のトゥルガル(咄曷)王まで発行された。…ペンジケントの場合、デーワシュティーチュの名前が刻まれたコインは見つかっておらず、Nanadhvampan「ナナ女神」の名前があるコインがそれだと考えられている。
p.36
 銅貨はソグド語ではpanyと呼ばれた。バクトリア語からの借用語で、インド語のpanaに由来する。…
…ちなみにコレズムの貨幣にはshawshfarnとあり、七五一年に中国に朝貢したコレズム王稍施芬王その人である。
p.38
ソグド語にはkhatu、dhatvar、dhatkare「裁判官」やdhata「法」ということばも知られている。
…チャカル婚は、夫を失った女性が正当な跡継ぎを残すためにする再婚の一種である。
p.40
漢文史料にはソグドで信仰されていた神格として、得悉神と呼ばれる神を記録しているものがある。
この神格は、ソグド人の人名Takhsich-vandak(原義「Takhsich神の僕」)に現れるTakhsichを漢字で音写した形式である。…最高神アフラマズダーも、暦の日以外では決してその名前では呼ばれず、Adhvagh「最高神」という呼称で暗示された。
p.41
 宗教施設としてはvaghn「祠」とpwadhe「神殿」(『経行記』の「抜」に対応する)が知られている。祠にはvaghnpatと呼ばれる神主がいた。ムグ文書にはその他にmaghupatも見える。…ソグド語には宗教者を現す言葉としてdhendharやdhenavarという言葉もある。…
…死体はいったん骨だけにして、それを素焼きの容器に入れ、墓地(∂skase)に作られた収納庫(frawarkate、vaghkate)に埋葬する。
p.44
ソグド人の人名にはbutiyan(「仏陀の恵み」)のようなbut(「仏陀」)を含む名前がある。またその同じ名前は、唐の高宗時代(六四九‐六八三)の播仙鎮(古い時代の且末)城主の[何]伏帝延のように漢字で音写されている。
p.46
三代可汗は当時の東アジアの三強(ウイグル、唐、吐蕃)のなかで、チベットの仏教、唐の道教や仏教に匹敵するウイグル固有の国家宗教の必要を感じていたのではないか。…ちょうど同じ頃、吐蕃でも国家の仏教として中国仏教(禅宗)を採用すべきか、インド仏教(密教)を採用すべきかで論争があり、結局インド側が勝利し、中国仏教は採用されなかったことは注目される。
…次に早い記録は七一九年で、このとき来たのも吐火羅国支汗那(チャガーニヤーン)王が派遣した慕闍(マニ教の高僧の称号)でソグド人ではない。
p.51
たとえば二〇〇四年に西安で発掘された李誕墓の場合、字を陀裟(梵語dasa「[神の]奴隷」)といい、墓誌にも罽賓出身とあるので、ソグドではなくカピシー(現在のアフガニンスタンの南部)出身である。
p.52
大同で発見された銀器に見られるバクトリア語銘文(Khingilaの名前が刻まれていた。この名前は『旧唐書』罽賓伝に見られる始祖の馨孽と同じで、同一人物である可能性が高い)や、バクトリア語の銘文のある銀の皿、バクトリアで制作されたと考えられる銀製の水瓶(李賢墓出土)も発見されている(これらの器物に関する斉東方の見解は一七一‐一七二頁を参照)。大暦年間(七六六‐七七九)には、ソグド商人たちとともに得度した羅姓のバクトリア人(出身は「土火羅」とある)たちが記録されている。…同時代のニヤの木簡に見える月氏国胡や、ソグド語の古代書簡で、飢えのためにソグド人たちとともに洛陽で死んだと伝えられている「インド人たち('yntkwt)」もこの背景で理解すべきかもしれない。ソグド人以外のシルクロード商人という点では、龍門石窟の造像記(七世紀)にソグド人とともに名を連ねる尋威仁も注目される。姓から判断してコレズム(火尋国)人であったと考えられる。
p.53
それによればほぼ*chou mu(上古音は*mug)のような発音であった。…ひとつはペンジケントのコインで、そこの領主の名前はChamukyan(cm'wky'n)とある。同じ名前のソグド人(康之目延)が、敦煌のソグド人集落の戸籍にも見える。サマルカンドのコインには、Ukurchamuk('wkkwrtcm'wk)という王名も見える。
p.54
伝承に混乱があり、史書によって微妙に表記は異なるが、屋屈支木のような言語を想定できると筆者は考えている。これは玄奘が会ったサマルカンド王であったと考えられる。同じ頃のタシケントの王は『新唐書』に記録されているが、瞰土屯摂舎提於屈昭穆であった。「土屯」(トルコ語のtudunに当たる)や「摂舎提」は、それぞれ称号と部族名であり、「於屈昭穆」の部分が取り出せる。発音から見て、Ukurtchamukと同じ名前である。ペルシア語で書かれた『ブハラ史』には、イスラム時代以前の話として、圧政に耐えかねてブハラを去りセミレチエ方面に移住した人々の伝説が語られている。リーダーの名前はjamukと言った。アラビア文字ではjはch(すなわち[c])も表記するので、言語はchamukでもあり得た。彼は移住先にJamukkat「Jamukの町」を建設したといい、実際にその名前の町がイスラムの地理書に記録されている。アルメニア語で書かれた歴史書は、七世紀初めアルメニアの英雄と戦ったChembukhの名前をあげる。…イスラム以前のコレズムにも、同じ要素を含む名前の王Askajamukがいた。
p.58
敦煌出土の漢文文献「沙州伊州地志残巻」によれば、唐の始め貞観(六二七‐六四九)の頃、康艶典という名のソグド人が、かつての楼蘭国の領土に石城鎮、葡萄城、新城、屯城という植民聚楽を築いた。…
…四三九年に北魏が北涼を滅ぼしたとき、姑臧(現在の武威つまり唐の涼州、ソグド語の名前はKachan)で多くのソグド商人が捕虜になった。
p.60
サマルカンド出身のNoshfarnが、使者としてチベットの可汗のところに行くという内容である。
p.61
揚州生まれの鑑真に同行した安如宝はソグド人であった。
p.63
唐の太宗と玄宗が保持した名馬を意味する言葉に叱撥があるが、その原語はソグド語のcherdhpadh「四足の(畜)」である。
p.64
ソグド人のこの種の公益活動を最もよく示すのは、七三二年三月から四月にかけての石染典(ソグド名Zhimatyan)の過所である。
p.66
トルファン出土の女奴隷の売買契約でも、dhpirpat「書記長」という称号を持つソグド人が存在し、証人となる多くのソグド人とともに契約に権威を与えている。
p.70
二五×一一センチ程度の断片で、たいした情報もなかったが、文末の「どんな情報(=言葉)を得てもお知らせします」という文言と、khararugh(xr'r'wγ)という今まで知られていない語が興味を惹いた。筆者は後者はトルコ系の民族カルルク(Qarluq)を指す語に違いないと直感した。この民族の名前は九世紀初めのカラバルガスン碑文ではKharkughと表記されているので、khararughは奇妙だが、漢文史料では歌羅禄とも表記され、言語の発音としてはkhararughのほうがありやすい。ちなみにソグド文字には[l]を表記する文字がなくrを表す文字に補助記号をつけて表記するが、単にrだけで代用する場合も多い。
p.71
 翌年の一月の終わりに彼から電子メールが届き、別に見つかっている漢文の文書から龍朔年間(六六一‐六六三)に、現在のジムサル(天山をはさんでトルファンの北。唐代の庭州)の西にあった金満県付近にいたカルルクの部落に起こった事件にかかわる一連の文書であることが判明した、ついてはrungshughは「龍朔」に対応するのではないかとあった。…
…「突厥」という漢語の呼び名は、六世紀終わりのブグト碑文(第2部参照)で見つかるソグド語のtr'wktに由来することが知られている。…
 突厥とソグド人との関係で有名なのは上述した安諾槃陀の例で、五四五年に西魏の使いとして建国間もない突厥に派遣された。…ちなみに彼の名前はAnakhtvandakであったらしい。
p.72
使者に立ったのは商胡の越者であった。彼の名前はWarchと復元できる。「奇跡」を意味するソグド人の名前であろう。…石廓に見られるペルシア風のレリーフ(図5-35〜38を参照)や、薩宝であったこと、そして何より彼の字がソグド語の莫潘(Makhrarn「月の栄光」)であったことから、彼がソグド人であったことは疑いがない。ただ墓誌に言う彼の出身の魚国は未だに不明である。
p.90
中国国内の地名のkymzyn=金城(蘭州)、kc'n=姑臧、'nkp'=鄴、cwcn=酒泉は、漢語の地名の音写である。楼蘭をkr'wr'nとするのは、漢語の「楼蘭」と同じように現地の呼び名に従っているのであろう。一方敦煌をδrw'n[θruwan]とするのはプトレマイオスのThraonaと一致する。漢語の「敦煌」はその音写であると考えられる。洛陽をsrγ'、長安をxwmt'nとする理由は分からない(長安のほうは一説に秦の咸陽の上古音に由来するとされる)。
p.94
本文中に見える張姓の沙門のヤンシャンとは、トルファン・アスターナ出土の漢文文書(『吐魯番出土文書』のシリーズの3/163、4/138=637 CE)に見える張延相ではないかと私は考えている。
p.106
ゾロアスター教のズルワンは仏教の梵天と習合したのでひげ面と認識されている。最高神はソグド人がアフラマズダーの名前をはばかって使う名称だが、この神は帝釈天すなわち三つ目のインドラと習合した。風神のウイシュパルカル神はインドのシヴァ神と習合し顔が三つあることになっていた。
p.134
ワワルフマーン王の名は、客間の正面の壁に記されたソグド語銘文に現れている。この王は、漢文史料では「拂呼縵」と呼ばれているサマルカンド王にあたり、六五八年に唐の三代皇帝高宗から康居都督に任命され、ソグドの支配を任されている。
p.199
太宗の時期はまた、積極的に新しいものを求める時代であったため、各民族や異国の芸術を広く吸収し、燕楽、清楽、西涼楽、天竺楽、高麗楽、亀茲楽、安国楽、疏勒楽、康国楽、高昌楽の十部楽を完成させた。



■中国タクラマカン砂漠のシルクロード周辺でM5.1 震源の深さ25km
(ハザードラボ - 12月05日 12:21)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=187&from=diary&id=5890413

 米地質調査所(USGS)によると、中国の新疆ウイグル地区に広がるタクラマカン砂漠でマグニチュード(M)5.1の地震が発生した。
 地震が発生したのは、カザフスタンとキルギスタンとの国境近くで、シルクロードのルート上にあるクチャ県から100キロ西方のタクラマカン砂漠。USGSは震源の深さを25.4キロと推定している。


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