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2020年02月19日15:15

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何のために生かし続けるのか

随分前に、川底に首のない子供の死体が沈んでいるとして大騒ぎになったことがある。そこでそれを引き上げてよく調べたところ思いがけないことが判明した。それは全身の毛を剃り落とし首と尻尾を切断した猿の死体で、猿に特徴的な部分がなかったために人間の子供の死体と見間違えられたのである。

姿形が人間に似ている物として人形があるが、近頃のダッチワイフ(ラブドール)の外見は人間そっくりであり、野外で死体を見つけた人の通報では「人形みたいなもの」とか「マネキンみたいなもの」と表現されることがよくある。なので外見が人間らしく見えても、それだけで人間であるとしてしまうことはできず、これらは「人の姿をした物体」として表現すべきことである。

植松聖が始末をしたのは「人の姿をした物体」であって人間と呼べるべきものではない。それをこの記事では
>障害者の排斥が「社会の役に立つ」という異常な主張を続ける被告は大麻を常用していたとされ、

と表現されてるが、それはありふれた障害者に対して失礼である。肉体に欠損部分や機能不全の部分があっても、精神的に人間の部分が保たれていてこそ人間であるからだ。以前の記事では「知的障害者」といった表現が行われていたことがあるが、「人間の姿をした物体」に心らしきものが認められたとしても、人間らしさとは無縁では【人の皮を被った何か】でしかない。

植松聖の主張は至って明快である。自立が出来ず社会に貢献できない人の姿をした物体を【何のために生かし続けるのか】ということで、彼は「生かし続ける価値がない」として始末を自ら実行した。それは実行に移す以前に政治家などに手紙を差し出したものの反応が芳しくなかったために、意を決して「手本になろう」としたと見て取れる。

ところが彼の主張に真っ向から対抗できない者たちは、別の理由によって植松聖を葬ってしまおうとしてる。なので「歪んだ考え」とか「異常な主張」と表現してるわけで、これは天動説と同様に「一方の端を固定」して他の事柄を眺めようとする無知蒙昧な者ならではの特色である。

植松聖の死刑は、「植松聖にとっての勝利」を意味する。だから彼は死刑判決が出ることを予想しつつも「控訴はしない」と明言しているのである。それは彼の主張は【崩すことの出来ない論理】として、彼の死後においても燦然と輝き続けるからだ。



植松被告「控訴いたしません」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5978765
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