子供が生まれたと聞けば、「おめでとう」とか「良かったね」と声がけするものであるが、知能や肉体に欠陥がある子供と分かれば絶句し、声がけをするべき言葉を思いつかないのものである。
警察は当初は殺された者たちの氏名を公表するつもりであったが、それに待ったをかけたのは遺族と言われる人たちである。氏名を公表されてしまえばどこの誰であるかが分かってしまい、親族が「肩身の狭い思い」をしなければならなくなるのを恐れたのである。
警察は遺族の申し出を最もと思い、「人の姿をした物体」に相応しい記号の公表となったが、これはナチによるユダヤ人絶滅政策において収容したユダヤ人を番号で呼んだのと全く同じである。ユダヤ人の腕には番号が入れ墨されたが、今回の人間の姿をした物体の火葬の際にお棺は「記号で区分けされ」ていたのかもしれない。
五体満足で生まれても、日常生活で事故に会い不具になってしまう人がいる。また高齢になれば誰しも心身の機能が衰えて不具になってしまう人もいる。そういう意味では五体満足な人は「障害者予備軍」と言えなくないが、生まれつきの片端者となると話は別である。
それでもまだ乞食をしてでも生きていける片端者はともかく、自立とは縁のない「人の姿をした物体」は、親族でさえ持て余す厄介者以外の何物でもない。この厄介者を植松聖は勇を決して始末をしつ、【何のために生かし続けるのか】を世に問うこととなった。
厄介者を始末してくれた植松聖に遺族と呼ばれる人たちは感謝をしているだろうが、世間でのお約束に従い声を大にして「植松聖を称える」ことはできない。そのために精々「生き仏様」として心のなかでは手を合わすしかないが、世間ともどもの三文芝居などしなくても良い社会にするべきなのである。
■植松被告に死刑求刑、遺族「極刑でも軽い」 相模原殺傷
(朝日新聞デジタル - 02月17日 12:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5976064
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