自然界における動物は、歩けないことは死を意味する。それは食べ物を得られず、敵から逃れられないからで、傷ついた獣は置き去りにされることになる。
それに対して人間界では、歩けないことは必ずしも死を意味しない。手を使って這い回り、残飯として捨てられたものを食い漁ることができるからだ。とはいってもそれは定住生活を営んでいる場合であって、放浪生活ではついていけずは野垂れ死が定めである。
ところが這い回ることすら出来ない者は、おこぼれによって生きていくことすらできず、誰かの積極的な食糧援助が得られなければ程なく死ぬ。見世物としての価値があるなら生かしておいてやろうとする人がいるにしても、何の取り柄もなければ「余程の物好き」の人以外からは見捨てられてしまうこととなる。
今現在、寝具の上に寝そべり、意思疎通が出来ないにも関わらず、食を始め色々なことの面倒を見てもらっている人は、「物好きな人」による好意のためではない。世間の柵のために、望むと望まないに関わらず「それを、押し付けられて」いるからだ。
そこで、植松聖は考えたのだろう。こんな役立たずは殺してしまえば、否応なく役立たずの世話をしている人達は「幸せになる」はずだ。そしてそのために私(植松聖)は考えを実行に移すべきで、例え私の行為を理解できない人から非難され、悪口雑言を浴びせかけられようと、それらは「身に余る光栄」として受け止める覚悟ができている・・。
といったことが、彼の言葉に秘められていると解釈できる次第である。
■被告「返事がない人を刺した」 相模原殺傷、記者と面会
(朝日新聞デジタル - 07月22日 17:13)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5716849
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