イベントプロデューサーの世界で「シーラカンス」とも称される存在の人がいます。渡部高揚という人で、旧後楽園球場で坂本九を司会に起用した「日本の祭り」というイベントテレビ番組を企画したり、ソ連崩壊後のロシアから失職状態にあった一流クラシック音楽
今日一月三十一日は「愛妻の日」だそうです。私は独身ですが、妻帯者の皆様、今日一日はいつもにも増して、奥様を大切にしてあげてください!さて、定年退職して引退し、その後仕事に就かず悠々自適の生活を送っている、いわゆる「勝ち組」の人の中には、引退
きのう、定期的に我が家をおとずれる訪問介護士から、私が五万七千円以上もする肩掛け鞄を買ったことを知るや、「これからは高い買い物をする前には、ボクに相談してね」と釘を刺されました。この人とは三国志、ゲーム、プロレスと話が合い、健康状態や薬の管
おととし、ジャズ=フュージョンのボーカリスト、アル・ジャロウが亡くなりました。そうか、もう二年になるんだなあ。1979年にはグラミー賞の最優秀ジャズ・ボーカル・アルバム賞を受賞した人でもあります。1982年にはグラミー賞の最優秀男性ポップ・ボーカル
たった今、長文を書いて投稿しようとしたら画面がいきなり切り替わり、「インターネットに接続されていません」の表示が。Windows10め、あいかわらず無慈悲なことをしやがる。まあいいさ、もう一度書き直しだ。私は大学に二回、行きなおしました。最初は獣医
荻窪でつけ麺といえば、元祖「丸長」を挙げたいところですが、この店、とにかく仕事が遅い。ふつうのラーメンでも30分は待たされます。これがつけ麺となるともっと時間がかかる。味はまあまあ。永年の人気もうなずけるところです。 やや新しいところでは「麺
私は多摩地区なれど一応は東京生まれ。しかも二十年にわたって都内・杉並区に住んでいたので、芸能人・有名人にはけっこうな数、遭遇しています。まず手始めは高校時代。国電・中央線に高校からの帰り道、浅草オペラの雄、田谷力蔵が座席に座っていたのです。
もっとも好きな日本人レスラー、マイティー井上の名勝負・好勝負について書きます。今回はおもに国際プロレス時代の試合について。まずは誰もが認めるのは、同門、先輩にあたる寺西勇との名勝負数え歌でしょう。このカードはテレビでも放映されましたし、初期
代表的で、しかも私をいじめた奴らが三匹います。今日は奴らのことをつぶさに紗良氏てろうと思います。第一が社長、当初は「代表」として赴任してきた四十万(しじま)久という男。彼の一族は、男の場合、名前の最後を「し」とするのが決まりなんだとか。この男
勤め人をしていた時代、私が服部調理師学校からトラバーユしてきたグルメの女の子とレストランについて話していると、私の悪口を六年にもわたって言い続けていた例の団塊の世代の男が駆け寄ってきました。二人の間に割って入り、「独身貴族同士だから、そんな
昭和の時代、街のあちこちに「どさん子」「どさん娘」「コタン」などといったサッポロラーメンを標榜した店が立ち並んでいました。今ではまったく見かけなくなってしまったけれど。これらの店のラーメンは町の中華屋さんのラーメンに比べると割高で、もやしを
私は昭和・東京の鰻三名店のうち、二軒を制覇しております。南千住の「尾花」こそ体験していないものの、西荻窪にあった今は無き「田川」からはちょいちょい出前を取っていました。また、文京区水道端のある「石ばし」にも足を運んだこともあります。だから鰻
藤田まことが死去にともない抜け、必殺シリーズは東山紀之を中心としたジャニーズタレントで固められるようになりました。しかしゲストの扱いがひどい。哀川翔の扱いも中途半端だったし。石橋蓮司と佐野史郎が親子の悪役で出た時は最悪。二人とも一癖も二癖も
ひさびさにプロレスについての話題です。国際プロレスでの定番カード、グレート草津対ビル・ロビンソンは好カードでした。ものぐさな草津をロビンソンが引っ張りまわし、その潜在能力を存分に引き出していたのです。試合はいつもセミファイナルで行われ、45分
さっき投降した日記が反映されず、すべて消えてしまいました。Windows10め、相変わらずネット接続の機嫌が悪いようだなあ。まあいいさ。もう一度、最初から書き直します。さて、体調についてですが、おかげさまで風邪の諸症状はほぼ完治いたしました。まだ鼻
本名でなくて議員に当選したのはグレート・サスケをはじめとしたプロレスラーだとばかり思っていました。ところがこれがとんでもない間違いだったんですね。元俳優でもあり歌手でもあった森田健作氏がその元祖だったのです。彼の本名は鈴木栄治。森田健作は芸
ミシェル・ルグラン(Michel Legrand)氏が死去しました。86歳だったそうです。ニュースではあくまでも映画音楽などの作曲家として紹介されています。しかし以前にも投降したように、彼の本業はあくまでもジャズピアニスト兼ジャズオーケストラの作編曲家なの
相撲にまったく興味がありません。というか、大嫌いです。アメリカの学者が証明しました。「七勝七敗で千秋楽を迎えた力士は98%の確率で勝つ。つまり相撲はスポーツや格闘技ではなくて、単なる興行、見世物である」と。現役時代の朝青龍や貴乃花は八百長を絶
普段は端正で流麗で抒情的な演奏を繰り広げるジャズピアニスト、トミー・フラナガンですが、伝説のジョン・コルトレーンのカルテットを支えたドラマー、エルビン・ジョーンズと共演すると一変します。ライブで共演したことがあるようですが、スタジオ録音され
サラリーマン時代、職場がコールセンターで西新宿副都心の住友三角ビルにありました。また、このビルには朝日カルチャーセンターがあり、そこにも通っていました。サラ金で昔借りた金はすべて返したのですが、利息に過払い金が発生していそうなので、中央事務
バド・パウエルが情熱と不安定ながらスリリングな要素を備えた破滅型の天才なら、アート・テイタムは盤石の安定さを持った、バドを上回る真の天才です。テイタムはクラシカルなスイングジャズを自前のスタイルとしてジャズ界に君臨、かたやパウエルはモダンジ
当代の市川猿之助というよりも、やっぱり私には亀治郎のほうがしっくりくるなあ。最近はルフィなんかも演じているけれど、この人の本領発揮できるのは、やはり古典、それも女形です。地方公演があったので、出張がてら現地・出雲で彼の芝居を見ました。団体で
最近のバリーさん、来日すると邦人のジャズドラマー、木村由紀夫さんと共演することが多くなっています。 彼は昼は歯医者、夜はジャズドラマーと二足の草鞋を履いている人です。それは良いのですが、バリーさんの強烈なビート感覚に振り回され、どうにももの
57歳ですか。まだまだこれから活躍してほしかった勘三郎さん。奇しくも私と同年齢です。彼のことが好きで、わざわざ東京から京都の南座まで見にいったものです。高校は暁星学園。そこの出身者によると、学校の催し物で、彼が踊りを披露したそうです。歌舞伎の
母親については以前に書きましたが、今日は私の父親について。私は父親との縁が薄く、影響をほとんど受けませんでした。父は蛇の目ミシンという会社に定年まで勤めた、彼の兄弟の中でただ一人、勤め人人生を送った人でした。趣味はドライブ、写真撮影、8ミリ
荻窪駅南口から歩いて五分くらいのところに「イワシの目」なるジャズ喫茶がありました。店名の由来は、深夜になるとマスターの目がとろんとしてきて、イワシの目状態になるところからだそうです。たしかマスターとその弟さんでやっていたと思います。マスター
高円寺にはもう一つジャズ喫茶がありました。「As soon as」という店で、朝5時までやっているところで、これも高円寺にある中央ゼミナールという予備校の学長の息子がやっていたのです。中央ゼミの予備校生も客としてよく来ていて、「中央ゼミあってのAs soon
高円寺にあったジャズ喫茶「サンジェルマン」。ネットで調べるとマスターがスキンヘッドだったとありますが、私の記憶では長髪で髭をたくわえていました。おかしいな。別人なのでしょうか。このマスターとはずいぶん仲良くなり、ロン・カーターのカルテットの
深大寺温泉の垢すり嬢、由美ちゃんから、「落語と講談って、どう違うんですか?」と尋ねられました。マイミクのゴーヤさんあたりからすると、私の解説などはちゃんちゃら可笑しいかもしれませんが、まあ一つ付き合ってやってください。そもそも私が最初に講談