T・H・グリーンの教義 その4 例えばこれをイエスの弟子達に当てはめて見ると、彼らの直観は感覚的なものに著しく依存してましたが、これがパウロになるとこのような感覚的依存は完全に払拭され、自分の対象を全く霊的直観のみに限って見るようになりました。しかし尚且つ、世界を神との和解にもたらした神の子とナザレのイエスとの同一視(実は、これは彼の直観の本質であったが)は、必然的に、神の子についての観念を可視的・感覚的なもの(ナザレのイエス)によって制限し、また混乱させるものでした。そこでグリーンは、これらを克服する方法として、直観に代えて哲学的観念で表現することを主張するのです。
だが果して彼によって哲学化された教義は依然として「キリスト教」と呼べるものでしょうか。彼は確かに伝統的なキリスト教用語を多く用い、またヨハネやパウロの言葉を例証していますけれども、その試みは丁度初期キリスト教における覚智主義者のように、自らの基盤とした哲学的観念に適合する言葉と思想のみを拾い出してキリスト教的装いを整えている面が強く、それは必ずしも伝統的・聖書的観念に適合する言葉と思想のみを拾い出してキリスト教的装いを整えている面が強く、それは必ずしも伝統的・聖書的キリスト教信仰をそのまま継承しているとは言い難いのです。
この続きは別項で。
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