mixiユーザー(id:5138718)

2020年08月09日01:08

19 view

8月9日が誕生日である人々

1192年(建久3年)、鎌倉幕府第3代征夷大将軍にして歌人の源実朝(みなもと の さねとも)が生まれました。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きます。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執りましたが、成長するにつれ関与を深めました。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられましたが、その翌年の建保7年1月27日に鶴岡八幡宮で頼家の子、公暁に暗殺されました。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶しました。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれています。家集として『金槐和歌集』があります。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。
1866年(慶応2年6月29日)、洋画家の黒田清輝が生まれました。1891年には『読書』、1893年には『朝妝』(ちょうしょう)がフランスの展覧会で入賞しました。裸体画の大作である『朝妝』(焼失)は、黒田がパリを去る直前の1893年に制作されました。本作品はパリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得、日本では1894年の第6回明治美術会に出品されました。しかし、翌1895年の第4回内国勧業博覧会(京都)ではこの作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展しました。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのです。1924年7月15日、57歳の若さで没。
1896年、スイスの心理学者、ジャン・ピアジェが生まれました。20世紀において最も影響力の大きかった心理学者の一人。知の個体発生としての認知発達と、知の系統発生としての科学史を重ね合わせて考察する発生的認識論(genetic epistemology)を提唱しました。発達心理学者としては、「質問」と「診断」からの臨床的研究の手法を確立しました。子どもの言語、世界観、因果関係、数や量の概念などの研究を展開しました。 1980年9月16日に84歳で没。
1909年、映画、ジャズ、ミュージカル評論家。画家、グラフィックデザイナーの野口久光が生まれました。生涯に1000点を超える映画ポスターを描いたと言われます。1946年、上海より引き揚げ、東宝撮影所を経て、新東宝にて映画プロデューサーに。『大学の門』や『エノケンのとび助冒険旅行』『東京のヒロイン』など6本の映画を世に送り出しました。戦前からジャズや軽演劇、レビュー、ミュージカルの第一人者として活躍し、多くのポピュラー・レコードの解説、ジャズ雑誌でのレコード批評、ミュージカル評論を残しました。日本のオリジナルミュージカルの発掘にも尽力。ふるさときゃらばんの名誉応援団長も務めました。ジャズ評論においては同年配の油井正一のような、でたらめ、気ままな評論をしなかっただけ、ましと言えるかもしれません。1994年6月13日没、84歳没。
1914年、フィンランドの童話作家、トーベ・マリカ・ヤンソンが生まれました。女性。15歳で政治風刺を中心とする雑誌『ガルム』の挿絵を描き始めます。代表的なキャラクターのムーミン・トロールは、小説としての『ムーミン』シリーズの執筆(1939年、発表は1945年)よりも早く1944年頃から『ガルム』誌に挿絵として登場します。2つの自画像の油絵があり、20代の“タバコを吸う娘”と60代の“自画像”です。若い時から酒とタバコが好きでした。日本ではあまり知られていませんが、一般向けの小説(トーベ・ヤンソン・コレクションとして刊行)も多く書いています。日本でもムーミンシリーズ誕生60周年の2005年からあいついで文庫本(『トーベ・ヤンソン短篇集』・『誠実な詐欺師』)として発刊され、再評価されています。作家として世界的に有名ですが、本国フィンランドでは画家としての評価も高く、特にフレスコ画の手法を用いた国内の公共建築の壁画など多く作品を残しています。2001年6月27日、ヘルシンキにて86歳で死去。
1914年、内務・建設・警察・防衛・自治官僚、政治家の後藤田正晴が生まれました。内務省を経て警察官僚として昭和期の動乱にあたって治安維持に努め、警察庁長官(第6代 )まで上り詰めました。退官直後に田中角栄により抜擢され内閣官房副長官として田中政権を支えましたが、参議院から国政に進出しようとしたことが「阿波戦争」に発展し、田中の権勢を弱めることとなりました。その後逆境を乗り越えて徳島県全県区から衆議院議員に選出され、以後7期務めます。この間に自治大臣(第27代)、国家公安委員会委員長(第37代)、北海道開発庁長官(第42代)、内閣官房長官(第45・47・48代)、行政管理庁長官(第47代)、総務庁長官(初代)、法務大臣(第55代)、副総理(宮澤改造内閣)などを歴任。 政界人としては遅咲きながらも、自由民主党の重鎮・御意見番として国政を支えました。その辣腕ぶりから「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取りました。最初の小選挙区制の選挙となった1996年の総選挙には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退きました。2005年9月19日午後8時53分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肺炎のため死去、91歳。
1929年、元ニュースキャスターの磯村尚徳(いそむら ひさのり)が生まれました。学習院大学政経学部を卒業後の1953年にNHKに入局。当時NHKではフランス語の使い手が必要だったため、たった一人東京報道局に配属になりました。1954年外信部に入局、以後インドシナ、中東、ヨーロッパ総局パリ支局(1958年〜1962年)特派員、東京報道局政治部の自民党記者クラブ大野派担当記者を経て、1966年アメリカ・ワシントン支局長、帰国後1971年に外信部長に昇格。1974年4月から報道局副主幹としてニュースセンター9時の初代編集長兼キャスターを担当。1977年よりヨーロッパ総局長、1984年に報道局長、専務理事待遇特別主幹を歴任。1991年東京都知事選挙への立候補のためNHKを退職。一度は出馬を表明し撤回したアントニオ猪木と政策協定を結びましたが、東京都知事選に落選。その後はフリーの外交評論家として活躍。パリに渡り、パリ日本文化会館館長を2005年3月まで務めました。その他様々な要職・委員を務めます。NHKの元アナウンサー・松平定知はいとこ。
1933年、女優、司会者の黒柳徹子が生まれました。愛称はトットちゃん、チャック。日本でのテレビ誕生と同時に生まれたテレビタレントの先駆けとして、長年に亘り第一線で活躍し、現在に至るまで唯一テレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けています、テレビ放送史を代表する芸能人の1人です。現在、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中。テレビ朝日『徹子の部屋』の司会や、累計800万部を記録し、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者。母はエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)。『若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになりました。1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めました(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板しました)。この番組の中で黒柳は南野陽子に対し、「まあ、あなたは嫌いなことは嫌だとはっきり仰って、と発言し、南野を泣かせました。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めています。長年に亘るジャイアントパンダ保護活動への功績から、中華人民共和国四川省の成都パンダ繁育研究基地より、今年生まれたパンダの命名権が初めて無償で与えられたことが2012年9月放送の『世界・ふしぎ発見』内で伝えられました(通常は一定金額の寄付などで期間限定の命名権が与えられる場合があります)。
1935年、女優の吉行和子が生まれました。1954年に女子学院高等学校を卒業。在学中の同年に劇団民藝付属水品研究所に入所。体が弱かったこともあり、女優になるつもりはなく、衣装係にでもなれればと思って受験したところ、思いがけず女優候補として採用されました。1955年に初舞台。1957年には民藝所属となり、『アンネの日記』のアンネ・フランク役に抜擢され主役デビュー。しかしその後は、地味な「農民の娘」役ばかりであったということです。1969年に民藝を退団してフリーになり、1974年の舞台『蜜の味』は、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞しました。舞台女優としては、34年後の2008年、『アプサンス〜ある不在〜』を最後に舞台から引退することを表明しましたが、舞台が好評を博したため、2009年にアンコール公演が決まりました。吉行自身はこのことに関して「女優って嘘つきですね」とコメントしています。一応、この作品のアンコール公演をもって舞台は引退するということですが、その撤回も考えていると、2009年出演の『徹子の部屋』でその複雑な胸中を明らかにしました。一方、1955年に津島恵子主演の映画『由起子』で映画デビュー。1959年に日活と契約し、同年の『にあんちゃん』『才女気質』の演技で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。1978年に性愛を大胆に扱った大島渚監督の『愛の亡霊』に主演して(40歳を過ぎての出演には周囲の反対がありました)世間を驚かせ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。『折り梅』などで2002年毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞しました。『おかあさんといっしょ』の「おはなしこんにちは」のコーナーでお話のお姉さんとしても活躍。文筆の世界では、1983年にエッセイ集『どこまで演れば気がすむの』を出版し、1984年の第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。2000年の母の日に贈った五行歌は『朝日新聞』で大きく紹介されました。
1941年、俳優の石橋蓮司(いしばし れんじ)が生まれました。中学生時代の1954年、母親に連れられ当時近所にあった劇団若草に所属。同年13歳のとき東映児童劇映画第1回作品『ふろたき大将』で主役デビュー。17歳で劇団若草を辞め、東映児童劇団に身を預けます。大学中退後の1965年、劇団青俳の養成所に入所。1968年、共に青俳を脱退した劇作家の清水邦夫、演出家の蜷川幸雄、俳優の蟹江敬三、岡田英次、真山知子らと劇団現代人劇場を旗揚げします。1971年に現代人劇場が解散した後、1972年に清水、蜷川、蟹江と劇結社「櫻社」を結成。1974年に蜷川が商業演劇に活動の幅を広げたのを機に櫻社が解散した後は、1976年に緑魔子と劇団第七病棟を旗揚げ。第七病棟の公演では、使われなくなった建物を劇場に改造して唐十郎や山崎哲の作品を上演し、その多くで自ら演出を手掛けています。テレビ、映画にも多数出演し、降旗康男の監督作品には互いのキャリアの初期から40年にわたって出演を続けているほか、深作欣二、篠田正浩、市川崑、神代辰巳、田中登ら多くの著名な監督に起用され続けてきました。三池崇史監督作品の常連でもあります。悪役からコミカルな役柄まで幅広く演じており、テレビのドキュメンタリー番組のナレーションやNHKの人形劇など、声の仕事でも知られます。偏執狂的なターゲットを追い詰める役柄は天下一品。近年はいじめられるいじられキャラに変貌しました。妻は女優の緑魔子。
1944年、俳優の佐藤蛾次郎が生まれました。1953年に朝日放送児童劇団に入団。1961年に『神州天馬侠』の泣き虫蛾次郎を演じてから、芸名を佐藤 蛾次郎に。1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に出演。1969年からは映画『男はつらいよ』に柴又題経寺の寺男・源吉(愛称:源公、源ちゃん)役で出演。最新作の2019年まで出演し続け、本シリーズに欠かせない存在となります。ファンからは全50作全てに出演したと思われていますが第8作の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』のみポスターに名を重ねているものの撮影直前に交通事故に遭い緊急入院したため出演していません。2018年11月4日に開かれた「寅さんサミット」で佐藤は当時のことについて「(自分が)助手席に乗っていたBMWが、100キロでガードレールに突っ込んじゃった。肋骨が5本折れた」と告白し、「2か月の重体。ワンカットも出られない。しょうがないね」と残念な想いを語っています。1970年代 - 1980年代にはアフロヘアーにしていましたが、テレビドラマ『柳生一族の陰謀』、映画『戦国自衛隊』、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』などの時代劇でも丁髷のカツラを被らず、人の良い男をコミカルに演じ、そのヘアスタイルは佐藤の売りにもなっていました。
1950年、ジャーナリストの池上彰が生まれました。かつてはNHKで、社会部記者やニュースキャスターを歴任。記者主幹だった2005年で退職したことを機に、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活動しています。退職後は活動の場を広げ、2005年8月6日放送の日本テレビ『世界一受けたい授業』で民放初出演を果たします。以降、『ちちんぷいぷい』(MBSテレビ)など、報道・情報系の番組に多数登場しています。
2008年10月からは、『学べる!!ニュースショー!』(テレビ朝日)に、ニュース解説者としてレギュラー出演し、分かり易く丁寧な語り口が幅広い世代から好評を得て、徐々に人気を集めることとなりました。
1963年、アメリカの歌手、ホイットニー・ヒューストンが生まれました。11歳の時にジュニア・ゴスペル・クワイアに入り、ニュージャージー教会で歌い始めました。ニューヨーク市地域のナイトクラブで、母親とパフォーマンスをしていたところをアリスタ・レコードの社長クライヴ・デイヴィスにスカウトされました。1985年、デビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』は大ヒットとなりました。1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム『ホイットニーII〜すてきなSomebody』は、ビルボード200チャートに初登場1位を記録(女性歌手では初)。1992年には、初主演映画『ボディガード』が公開されました。映画のサウンドトラックは、1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど、高い評価を受け、アルバムからのリカット・シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなりました。ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人です。累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されています。また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価されました。2012年2月11日に、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテル4階客室の浴槽の中に倒れていたところを発見され、救急隊が20分間にわたって蘇生処置を施しましたが、同日午後3時55分(現地時間)に死亡が確認されました。48歳没。

次は忌日。
9 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031