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2020年08月07日01:06

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8月7日が忌日である人々

1831年(天保2年)、戯作者、絵師の十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)が67歳で没。江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕しましたが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となりました、また、志野流の香道を学びました。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作しました。寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝いました。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けました。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者でした。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材にしました。一九は独学で、黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集など、さらには教科書的な文例集まで書きました。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手伝いも続けました。寛政から文化期に自ら、「行列奴図」や、遣唐使の吉備真備を描いた「吉備大臣図」などの肉筆浮世絵を残しています。享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となりました。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写しています。文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わりました。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれました。一九は作品執筆による収入だけで生活した、日本初の職業作家ともいわれますが、当時は職業的著述業の成立を可能にする規模の市場が、日本に史上はじめて成立した時期だったのです。
1938年、ロシアの演出家、俳優のコンスタンチン・スタニスラフスキーが75歳で死去。ロシア演劇の代表的人物の一人。彼が創り上げた俳優の教育法は、スタニスラフスキー・システムと呼ばれ世界に多大な影響を与えました。
1941年、インドの詩人 、思想家、作曲家のラビンドラナート・タゴールが80歳で死去。詩聖(グゥルゥデーウ गुरुदेव)として非常な尊敬を集めています。1913年には『ギタンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞しました。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもありました。インド国歌の作詞・作曲、及びバングラデシュ国歌の作詞者で、タゴール国際大学の設立者でもありました。
1970年、映画監督の内田吐夢(うちだ とむ)が満72歳で死去。1920年(大正9年)、
横浜に創立されたばかりの大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手を務めます。その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演。1922年(大正11年)、牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビュー。1927年(昭和2年)、監督に昇進し、喜劇を中心に撮りました。1933年(昭和8年)、新興キネマに移りますが、やがて日活多摩川撮影所に移ります。そこで、『限りなき前進』、『土』などの作品を生み出します。1955年(昭和30年)、『血槍富士』を撮り、監督業に復帰。以降、『大菩薩峠』、『宮本武蔵』のような時代劇大作を発表する一方、アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』や、部落問題を底流に描いた水上勉原作のサスペンス『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けました。
1987年、政治家、官僚の岸信介(きし のぶすけ)が入院先の東京医大病院で死去。90歳没。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれました。佐藤栄作は弟。
1989年、政治運動家、元日本共産党政治局員の伊藤律が腎不全のため死去(76歳)。1949年2月、アメリカ陸軍省はゾルゲ事件に関する報告(コーネル報告、またウィロビー報告とも)を発表し、日本の新聞にも転載されました。この中で「伊藤が北林トモの名を供述したことが事件発覚の発端である」という説が唱えられました。このとき共産党側は志賀義雄が「この噂については1946年3月に厳密に調査をすすめた結果、当時の特高が謀略と行賞のためにおこなった作文で、北林と伊藤には組織上の連絡はない」という趣旨の談話を発表しています。伊藤の回想によると、北京機関では国際派への妥協を唱える野坂・西沢と徳田の間に溝ができており、さらに中国共産党の内部問題も絡んで複雑な状況となっていました。1952年になると徳田の病状は悪化、9月末からは入院し、やがて意識不明となりました。12月、伊藤が懸念していた通り、野坂参三は「スターリンの指令」という名目で隔離審査の対象とすることを伊藤に告げ、伊藤は軟禁されました。1953年10月に徳田は死去。この間、西沢と野坂によって伊藤を「スパイ」として除名する決定がなされました。文化大革命終了後の1979年、中国は喬石の決断で伊藤の釈放を決定し、12月に伊藤は病院に移されました。翌1980年3月に退院後、6月には妻へ手紙を送りました。7月31日に時事通信が伊藤の健在を伝え、8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを公式に発表、9月3日に29年ぶりに帰国しました。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていました。日本政府は帰国した伊藤の刑事訴追について「1950年7月に団体等規正令に基づく出頭命令に応じなかったことにより団体等規正令違反容疑で逮捕状が発せられていましたが、1952年の平和条約発効後に犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たるとする最高裁判例が確立しているため、団体等規正令違反容疑で処罰できない。また、法律の定める手続を経ないで出国していることが認められますが、出入国管理令は1951年11月1日に施行をされており、それ以前は連合国最高司令官覚書や昭和25年政令第325号が密出国を規制していましたが、1951年12月1日に廃止されているため、1951年10月31日以前の密出国は犯罪後の法令により刑が廃止されたときに当たり処罰できない。そのため、1951年11月1日以降の密出国であれば処罰できますが、1951年10月31日以前の密出国では処罰できず、伊藤の密出国が1951年11月1日以降という証拠がないため処罰できない」と答弁し、刑事訴追は行われませんでした。
1996年、女優の宮城千賀子が急性肺炎のため死去。73歳没。第二次世界大戦前に宝塚歌劇団を退団後、映画女優に転向、戦後も「劇団なでしこ」を率いて舞台活動も行い、テレビにも多く出演しました。本名佐藤 ユキ(さとう-)。1942年(昭和17年)に木村恵吾監督の大ヒット作『歌ふ狸御殿』を最期に引退して家庭に入りました。
2011年、ミュージシャン・俳優・プロボクサーのジョー山中が肺癌のため神奈川県横須賀市の病院で死去。64歳没。本名は山中 明(やまなか あきら)。プロボクサー時代のリングネームは城 アキラ。芸名のジョーは親交のあった画家・城景都がロックバンド活動をしていた頃に、その名前を気に入り、自ら「城」と付けたことに由来します。3オクターヴの声の持ち主。ライブ活動を中心に、映画・テレビドラマへも出演するなど、幅広い活動を行っていました。1977年、映画『人間の証明』に俳優として出演。主題歌「人間の証明のテーマ」(歌詞は西條八十の詩の英訳)も担当しました。1977年、大麻取締法違反容疑で逮捕。1979年、映画『戦国自衛隊』サウンドトラック制作に参加、挿入曲「もうなくすものはない」「GOIN' HOME」を作詞・作曲、エンディングテーマ「ララバイ・オブ・ユー」(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、シングルカット)を含めた3曲を歌唱しました。喧嘩が強く、安岡力也をタイマンで半殺しにしたほか、日比谷野外音楽堂でのコンサート中に、全共闘のメンバー十数人から殴り込みを掛けられ、ステージ上で大乱闘になった際、ボクシングで返り討ちにしただけでなく、演奏が終わった直後に逃げた相手を追いかけ、「それ以上殴ったら死ぬ」と止められるほどボコボコに殴りつけた、などといった武勇伝が存在します。

本日の忌日もこれきりぃ〜!
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