mixiユーザー(id:5138718)

2020年08月07日01:05

24 view

8月7日が誕生日である人々

1560年、ハンガリー王国の貴族、エリザベート・バートリ(バートリ・エルジェーベト)が生まれました。史上名高い連続殺人者とされ、吸血鬼伝説のモデルともなりました。「血の伯爵夫人」という異名を持ちます。1614年8月21日、54歳で没。
1876年、フランスのパリを中心に活躍したオランダ人の踊り子(ダンサー)、ストリッパーのマタ・ハリ(Margaretha Geertruida Zelle)が生まれました。第一次世界大戦中にドイツのスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて1917年10月15日、処刑されました。世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となりました。
1842年(天保13年7月2日)、商人、実業家の伊藤忠兵衛 (初代)が生まれました。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成しました。明治36年(1903年)7月8日に忠兵衛は須磨の別邸で死去。満60歳没(享年62)。
1904年、医師の武見太郎が生まれました。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任しました。太平洋戦争後の厚生行政に於いては各種審議会の委員を委嘱され、1961年(昭和36年)には全国一斉休診運動を強行するなど、厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎と言われました。医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれました。1982年(昭和57年)4月、日本医師会会長を引退。翌年12月20日、胆管癌のために死去。
1923年、小説家の司馬遼太郎が生まれました。本名、福田定一(ふくだ ていいち)。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送ります。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがあります。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行いました。1996年(平成8年)2月12日、腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて死去。
1932年、エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手、アベベ・ビキラが生まれました。オリンピックのマラソン種目で史上初の2大会連続優勝を果たし、2個の金メダルを獲得しました。サハラ以南のアフリカ出身者としては初のオリンピック金メダル獲得者でもあります。1969年3月23日の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に事故を起こしました。生命に別状はありませんでしたが、第七頸椎が完全に脱臼する重傷を負ったことにより、下半身不随となってしまいます。晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていました。しかしミュンヘン五輪からわずか1年後の1973年10月25日、アベベは脳出血により首都アディスアベバにある陸軍病院にて41歳でその生涯を閉じたのでした。因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられました。靴を履かずに走ったことで「裸足のアベベ」としても有名。
1936年、俳優の増岡弘が生まれました。ある時、とある公演の舞台美術を担当した際、出演する人物が資金を持ち逃亡したため、急遽その人物の代役を担当。台詞を忘れるなど恥ずかしく悔しい思いをし、「もう一度やり直したい」と希望したことがきっかけで役者に転向。友人を頼って名古屋に移った後、放送局の劇団員オーディションに応募し合格。中部日本放送の東京支社に出入りしていた際にその近隣にあった喫茶店のマスターに東京俳優生活協同組合のマネージャーを紹介してもらい、1961年から同事務所に所属。テレビ草創期から活躍しており、アニメ『狼少年ケン』の大熊役以降は声優としての活動が大きいです。1978年からは近石真介に代わって『サザエさん』のフグ田マスオ役を、1988年からは『それいけ!アンパンマン』のジャムおじさん役を長年演じていました。声優業以外にも、劇団「東京ルネッサンス」を主宰して、舞台活動も行っていました。また、野沢雅子、肝付兼太、白石冬美と共に東京アニメーター学院で声優科の講師も務めていた他、自然団法人「みそひともんちゃく」の代表でもありました。日本各地で人権問題について考える講演活動も行っていました。2020年3月21日、直腸がんのため死去。83歳没。
1942年、レスリング選手、プロレスラーのマサ斎藤が生まれました。本名:斎藤 昌典 / さいとう まさのり。日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなって新日本プロレスを主戦場に活躍。アメリカにおいても、NWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残しています。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとして活動しました。思えばマサのレスラー人生はアントニオ猪木と長州力によっていいように左右されていたと思います。レスラー引退後は後輩の佐々木健介の世話を受け、2018年7月14日1時5分、パーキンソン病のため死去。75歳没。
1944年、兄弟フォークデュオ「ビリーバンバン」の兄、:ボーカル・コントラバス担当の菅原孝が生まれました。「白いブランコ」でキングレコード(SEVEN SEAS)よりメジャーデビュー、20万枚を超える売上となり、一躍フォークシンガーの代表的存在として人気を得ます。その後人気は低迷するものの1972年、テレビドラマ『3丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒット、その年の『第23回NHK紅白歌合戦』にも出場。進がソロで「琥珀色の日々」をヒットさせるなど、2人はそれぞれの道を歩んでいましたが、ビリーバンバンの復活を求めるファンの声は根強く、1984年に再結成、以降は、個人での活動と平行しビリーバンバンとして活動を行いました。現在では、十年以上にわたり手がけている麦焼酎・いいちこのCMソングでも有名(進のソロ曲が使われたこともある)。「さよならをするために」もCMで使われており、今では何の躊躇もなく歌っています。
1953年、ミュージシャン・俳優、実業家の桑名正博が生まれました。1972年に「スウィートホーム大阪」でデビュー。 1973年『ファニー・カンパニー』、1974年『ファニー・ファーム』と2枚のアルバムを残し、同年解散。桑名正博バンド、そして加賀テツヤ、山本翔と結成したユグドラジルの名義でキングレコードからリリースされたオムニバスアルバム『イントロダクション』に参加しています。1975年にソロ活動を開始し、1976年、RCAからアルバム『Who are you?』をリリース。1977年、当時のRCAの担当ディレクターだった小杉理宇造の紹介で筒美京平と出逢います。筒美は作詞に松本隆を指名。同年6月には二人の作品『哀愁トゥナイト』が発売されました。その後も『サード・レディー』など松本・筒美コンビのシングルをリリースし続けます。1977年9月に大麻とコカインの使用で書類送検されました。さらにコカイン常用の証拠隠滅を図ったことで10月12日に麻薬取締法違反容疑で逮捕され、懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けました。1979年発売のカネボウ化粧品キャンペーンソング『セクシャルバイオレットNo.1』は、チャート1位を獲得する大ヒットを記録。代表作のひとつとなります。いわゆる「ロック歌謡」と呼ばれたジャンルがブームだったのもこの頃です。1980年3月5日にアン・ルイスと挙式し、10日に結婚を発表しました。1981年4月、芸名を桑名正博から桑名将大へ改名。読みは同じ。1981年9月29日には、モデルをしていた19歳の女性ファンへの強制わいせつ致傷容疑で逮捕されますが、示談が成立して、不起訴処分となりました。同年12月25日には、大阪府警生活課と豊中警察署から、9月に大阪の実家で開いた大麻パーティーで大麻を使用とした大麻取締法違反容疑で取り調べを受け、容疑を認める供述をします。1984年に、アン・ルイスと離婚。東京に拠点を置いて芸能活動をしていましたが、芸能活動を陰で支え続けた父の没後、遺志を継ぎ1990年から家業を継ぐために出身地の大阪に拠点を戻しました。「桑名興業」は江戸時代から続く廻船問屋で、桑名正博は七代目となります。港湾荷役、建設業、倉庫業を営む中堅企業で、一時ゴルフ場の経営もしていました。1998年から2002年までは「THE TRIPLE X」というバンドを中心にして活動。その後はしばらく活動休止していましたが、2009年8月以降、桑名・芳野以外のメンバーを入れ替えてライブを行っています。 2000年5月、桑名興業社長に就任。社長業が多忙なため、東京での芸能関係の仕事はほとんどせず、大阪中心に活動。 しかし、バブル崩壊の煽りを受け会社は危機を迎えており、桑名が引き継いだ時には、すでに手遅れの状態でした。700坪の豪邸を売り払っても立て直しがきかず倒産しています。2012年7月15日早朝に大阪市内の自宅で心不全により倒れ、大阪市住之江区の友愛会病院に緊急搬送されましたが、意識不明の重体となります。意識不明の状態が続く中の同年7月20日、ゲスト出演した『ライオンのごきげんよう』が放映され、その際には倒れる前の7月11日に収録されたものである旨が表示されました。3回の出演予定でしたが、残り2回は7月18日に収録予定だったため、出演はこの回きりとなりました。同年8月2日、入院先の病院で長引く闘病生活に耐えるため気道に注入された人工呼吸器を外し、気管切開の手術を受けました。倒れてから長らく意識不明の状態であり、高カロリーの点滴(ラクトリンゲル)で栄養補給をしている状態が続いていましたが、2012年10月26日午後に死去。59歳没。
1959年、漫画家、小説家、エッセイストの内田春菊が生まれました。印刷会社の写植やバーのホステス、喫茶店のウェイトレスなどを経て、ペンネームの名付け親でもある編集者・プロデューサーの秋山道男に出会い見出されます。その後、彼女の個性を認めたいしかわじゅんの紹介もあって、1984年、双葉社発行の『小説推理』に掲載された『シーラカンスぶれいん』で漫画家としてデビューしました。性的な事柄をストレートに描き、岡崎京子、桜沢エリカらと共に「女の子エッチ漫画家」として人気を呼びます。また、エッセイ、漫画エッセイ等も執筆し、社会一般の価値観への異議を唱える内容が人気を博します。青林堂発行の『月刊漫画ガロ』には、1985年9月号『おそろしいかえる酒』で初登場しました。以後も『ガロ』に芸術性の高い作品を発表。1986年から1987年にかけて『ガロ』誌上に連載した『南くんの恋人』は、これまでに4回テレビドラマ化されています。
1993年に発表した初めての小説『ファザーファッカー』はベストセラーとなり、第110回直木賞の候補作となりました(1995年に映画化)。翌1994年には『私たちは繁殖している』・『ファザーファッカー』両作合わせて第4回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞しました。また『キオミ』で第112回芥川賞候補となりました。クラブ歌手だった経歴を生かし、1983年にラテンバンド「アベックス」を結成し、ボーカルを務めました。2010年から音楽活動を再開し、自身が監督を務める映画では主題歌を担当しています。また、女優として映画、ビデオ、舞台などにも出演しています。

次は忌日。
11 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031