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2020年06月04日02:18

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6月4日が誕生日である人々

1844年、歌舞伎役者の5代目尾上菊五郎が生まれました。五代目菊五郎の芸風は、一口でいえば創意工夫に満ちた三代目菊五郎の芸と、どこまでも写実的な動きをもとめる家に伝わる形に尊敬する四代目市川小團次のやり方を折衷した芸風でした。成田屋の「歌舞伎十八番」に対抗し、音羽屋のお家芸として「新古演劇十種」を撰びました。黙阿弥の世話物を得意としました。当り役は弁天小僧のほか、『勧進帳』の富樫、『源平布引滝』「実盛物語」の斎藤実盛、『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平、『義経千本桜』のいがみの権太・佐藤忠信、『東海道四谷怪談』のお岩・伊藤喜兵衛・佐藤与茂七、『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢、『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)のめ組辰五郎、『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の梅吉・竹垣道玄、『花街模様薊色縫』(十六夜清心)の鬼薊清吉、『怪異談牡丹灯籠』の関口屋伴蔵、『水天宮利生深川』(筆幸)の筆屋幸兵衛、『四千両小判梅葉』(四千両)の燗酒売富蔵、『曾我綉侠御所染』(御所の五郎蔵)の御所の五郎蔵など、後世の手本となったものは数多いです。1903年2月18日に58歳で没。
1855年(安政2年4月20日)、政治家の犬養毅が生まれました。中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任。1932年(昭和7年)5月15日はよく晴れた日曜日でした。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていました。夫人、秘書官、護衛らも外出していました。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていました。身体には何の異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言っています。17時30分頃、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団がピストルを振りかざして乱入してきました。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引きました。しかし、偶然にも弾が入っておらず不発に終わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内しました。応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めましたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返します。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしましたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃しました。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中しました。襲撃者たちは犬養に重傷を負わせるとすぐに去って行きました。女中たちが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中を制して「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたということです。22時頃に大量の吐血をしましたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気でした。見舞いに来た家人に「9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いたということです。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に帰らぬ人となりました。享年78(満76歳没)。
1869年、実業家、政治家の久原房之助(くはら ふさのすけ)が生まれました。衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取りました。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与しました。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となりました。戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めました。また、現在の大東急記念文庫の基礎を築きました。1965年1月29日、95歳で没。
1883年、漢学者、中国哲学者の諸橋轍次が生まれました。大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学および都留文科大学の(四年制大学としての)初代学長。本人によると直江兼続の子孫ということです。1982年12月8日、99歳で大往生。
1929年、歌舞伎役者の5代目中村富十郎が生まれました。父は四代目中村富十郎、母は日本舞踊吾妻流家元の吾妻徳穂。1943年(昭和18年)8月、大阪中座「鏡獅子」の胡蝶で四代目坂東鶴之助を名乗り初舞台。見ていると、まるで高速で回転しているかのような超絶技巧の芸の持ち主でしたが、歌舞伎界ではなぜか人望に乏しかったそうで、芸に見合うだけの役柄に恵まれませんでした。この人で弁慶を見たかったものです。人間国宝には認定されましたが。2011年(平成23年)1月3日、直腸がんにより東京都内の病院にて急逝。81歳没。
1937年、アメリカのプロレスラー、ゴリラ・モンスーンが生まれました。本名ロバート・ジェームズ・マレラ、通称ジノ・マレラ。そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍。引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、バックステージのコーディネーターやテレビ放送の実況アナウンサーを担当。生涯をWWEに捧げました。1994年、WWE殿堂入り。日本でのニックネームは「人間台風」。 1999年10月6日、62歳で没。
1940年、ヴァイオリニストの黒沼ユリ子が生まれました。8歳の頃よりヴァイオリンを始めます。1956年、桐朋女子高校音楽科1年で日本音楽コンクール第1位および特賞を受賞。その後、1958年よりプラハ音楽芸術アカデミーに留学。プラハでいくつかの賞を受賞した後、首席で卒業し、以降世界各地で演奏活動を行っています。1980年より2012年まで、メキシコシティ・ コヨアカン地区に「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開校しました。メキシコを本拠に世界各地で音楽活動を行っています。1988年にフェリス女学院大学大学院の教授に就任。2007年メキシコで音楽家に与えられる最高の賞とされるモーツァルトメダルを受賞。夫は『日本の祭り』を手掛けたり、ソ連崩壊後のロシアの演奏家を日本に招聘した、イベントプロデューサーの元祖、渡部高揚。私の知人でもあります。
1941年、女優の日色ともゑが生まれました。1969年に結婚した夫は建築家の中園正樹(株式会社松田平田設計 代表取締役社長)。 1961年、劇団民藝に入団、宇野重吉に師事し、演技を学びます。1967年、NHK朝の連続テレビ小説『旅路』のヒロインを担当。小学生の時に観た映画『原爆の子』(新藤兼人監督作)に心を打たれたことが役者を目指す原点となりました。自身も戦争で祖母と叔父、叔母を亡くしており、近年も平和の尊さを訴える朗読劇に積極的に参加しています。『大草原の小さな家』の吹き替えの依頼が来た当初は声優の経験がほとんど無かったことから自信が持てなかったので、1クール(22話分)だけのつもりで引き受けたということです。しかし番組は好評で十年を越す長寿番組になり、共演した子役たちからは現在も「お母さん」と慕われ、交流が続いているそうです。公演で新潟県を訪れた際とても好評だったことがきっかけで、近年は農業教室も開いており、自ら栽培し収穫した米は「ともゑ米」の銘柄にもなっています。60歳で終活を始めており、現在も進めています。いつ日色の命が終わるかはわかりませんが、数年前から自分が眠るための墓を用意しています。
1943年、歌手の梓みちよが生まれました。1960年、福岡女学院高校2年中退で宝塚音楽学校に入学。同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、上京し契約(同校は中退)。約1年間のレッスンを経て、1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズでキングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始めます。1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得ました。また同曲は翌1964年3月の第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用されました。更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前でこの歌を披露しました。明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となります。1974年には床に座り込んで歌う「二人でお酒を」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃)が久々に大ヒット。同曲で第5回日本歌謡大賞・放送音楽賞、同年末の第16回日本レコード大賞・大衆賞をそれぞれ受賞し、また『第25回NHK紅白歌合戦』にも5年ぶり8回目の復帰出場を果たし、イメージ・チェンジを成功させました。一方、1971年7月から1978年2月まで『新婚さんいらっしゃい!』(司会・桂三枝)の2代目アシスタントを務めていました。1975年末の『第26回NHK紅白歌合戦』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲「リリー・マルレーン」を日本語詞で歌唱。1976年は「メランコリー」(作詞・喜多条忠、作曲・吉田拓郎)が翌1977年にかけてロングヒット。同曲で1976年末に第18回日本レコード大賞・編曲賞(編曲・萩田光雄)を受賞し、『第27回NHK紅白歌合戦』に3年連続で出演しました。1979年、レコード会社をCBS・ソニーに移籍。同年日本専売公社「パートナー」のCMソングに採用された「よろしかったら」(作詞・阿木燿子、作曲・筒美京平)がスマッシュヒット。1982年、前年の1981年5月に37歳の若さで急逝したシンガーソングライター・大塚博堂の「トマトジュースで追いかえすのかい」(作詞・阿久悠、作曲・大塚博堂)をカバーしました。2020年2月3日、東京都内の自宅で1月末に死去していたことが公表されました。所属事務所によると、出演番組の打ちあわせで1月29日に訪れたマネージャーが、ベッドの上で亡くなっていた梓をみつけたということです。マネージャーは警察に通報しましたが、事件性はなく、その場で死亡が確認されました。76歳没。
1953年、俳優、歌手、タレントの江木俊夫が生まれました。幼年期は子役として活躍し、青年期はアイドルグループ『フォーリーブス』のメンバーとして芸能界の第一線で活躍。『マグマ大使』への起用は、江木が出演したピー・プロダクションのパイロットフィルム『クラブ君の冒険』での演技を評価していたうしおそうじ(鷺巣富雄)が推薦し決定しました。『マグマ大使』の撮影時は、ピー・プロダクション社長のうしおそうじ宅に泊まりこむことも多く、うしおの実子である鷺巣詩郎とよく遊んでいたということです。1999年、覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けました。
1956年、アメリカのプロレスラー、ジョー・マレンコが生まれました。本名はジョー・サイモン(Joe Simon)。父はプロレスリング・スクール "Malenko School of Wrestling" (マレンコ道場)を設立し、「チェーン・デスマッチの鬼」の異名を持つボリス・マレンコ。実弟はWWEでロード・エージェントを担当しているディーン・マレンコ。1985年5月にジョー・ソルコフ(Joe Solkoff)のリングネームで旧UWFに初来日。1988年からはジョー・マレンコとして全日本プロレスの常連外国人選手となり、1989年1月に渕正信、7月に百田光雄を破り、世界ジュニアヘビー級王座を2回獲得しています。弟のディーン・マレンコとのタッグチームでも活躍し、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスとも好試合を展開しました。1992年8月からはプロフェッショナルレスリング藤原組に度々来日し、1995年2月には新日本プロレスに初登場。同年12月には藤波辰爾の自主興行『無我』の第2弾興行にも参加しました。セミリタイア後の1998年5月11日にはWCWの『マンデー・ナイトロ』に登場、当時ディーン・マレンコと抗争していたクリス・ジェリコと対峙しました。引退後は地元のフロリダにて薬剤師に転じています。
1963年もプロレスラー。宮戸優光が生まれています。1985年9月6日の第1次UWFデビュー。1988年、第2次UWFの旗揚げに参加。その後、高田延彦を中心としたUWFインターナショナルの旗揚げに参加。選手というより、裏方として「1億円トーナメント」などの当時としては画期的なプロモーションやゲーリー・オブライトら強豪外国人レスラーの発掘などで活躍し「Uインターの頭脳」「Uの新間」と呼ばれました。1995年9月、新日本プロレスとの提携路線に反発してUインターを退団して引退。引退後は料理人を目指し、周富徳に弟子入りしていましたが、流智美の仲介でルー・テーズに再会したことをきっかけにプロレスへの情熱が再燃し、1999年にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの一般会員制ジム「U.W.F.スネークピットジャパン」を設立し代表に就任しました。ヘッドコーチにビル・ロビンソンを招聘し、2011年現在も井上学、鈴川真一、鈴木秀樹、定アキラら後進の指導にあたっています。
1974年、「能楽狂言方和泉流二十世宗家」を自称する狂言師、俳優の和泉元彌が生まれています。和泉流職分会・能楽協会・能楽宗家会は彼を宗家と認めていません。2002年、能楽協会から退会処分を受けて以降は能楽協会関連の舞台に立てず、能の間に演じる「間狂言(あいきょうげん)」を演じることは不可能となりました。現在の活動舞台は株式会社和泉宗家の主催する自主公演のみであり、近年の主な活動は歌やトークを交えたショー形式の狂言ライブと狂言教室です。2005年の愛知万博(愛・地球博)や中華人民共和国での公演などにも狂言師として出演しましたが、現在の公演数は一時期に較べると減少し、国立能楽堂での公演も稀となり、自宅の稽古場(敷舞台)を会場にして公演を行ったこともあります。2005年10月、記者会見を開き、「今後は狂言の世界で培った『狂言力』を生かし、本場アメリカのエンターテイメントプロレスに挑戦したい」と、電撃的にプロレス参戦を発表し2005年11月3日、横浜アリーナで開催のハッスルマニアでプロレスデビューしました。応援団として、母の節子率いる「セッチー鬼瓦軍団」も登場(「鬼瓦」とはある大名が鬼瓦を見て故郷の妻を思い出すという有名な狂言の演目です)。「セッチー鬼瓦せんべい」(6枚1000円)は当日10分で完売しました。元彌は、「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」と叫びつつヘリコプターの爆音とともに金色の派手な衣装で登場。試合では、対戦相手の元WWE所属レスラー鈴木健想との攻防を展開、プロレスの師であるAKIRAの援護、健想の妻浩子のパウダー攻撃の誤爆を挿んで、最後に「空中元彌チョップ」を連発してピンフォールを奪いました。これを見た和田アキ子は「なんじゃこりゃ。受けた鈴木さんのほうが巧い」と酷評していました。

次は忌日。
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