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2020年05月31日00:25

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5月31日が忌日である人々

1408年(応永15年5月6日)、室町幕府第3代将軍、足利義満が病のため死去。享年51(満49歳没)。南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築きました。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれました。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになりました。永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命しました。1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営しました。応永6年(1399年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていきます。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多いです。また北山文化の芸能である猿楽では、義満は観阿弥・世阿弥父子を庇護しました。また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔があります。塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていました。相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失しましたが、翌年の1404年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したということです。
1809年、オーストリアの作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンがナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで、77歳で死去。数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれています。弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられています。ハイドンの作品はほぼ全てのジャンル(オペラから民謡の編曲に至るまで)を網羅しており、膨大な作品の総数はおよそ1000曲に及ぶとされます。ただし未完・断片のみの作品、紛失した作品や偽作も含まれますが、それらを除いても700曲(ないしそれ以上)近いもので、弟のミヒャエルと肩を並べるほどの総数です(ミヒャエルも700曲以上作曲しています)。
1832年、フランスの天才的数学者、エヴァリスト・ガロアが腹膜炎のため20歳で死去。数学者として10代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研究を行いました。ガロアはガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理(アーベル-ルフィニの定理)の証明を大幅に簡略化し、また、より一般にどんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与えました。また、数学史上初めてカテゴリー論的操作によって自らの理論の基礎を構築しています。群論は数学でも重要ですが、数学以外、例えば物理では相対性理論や量子力学などを厳密に(形式的に)記述するツールとして用いられます。また、計算機科学、特に理論計算機科学においてガロア体、特に位数2のガロア体 F2 は最も多用される数学的ツールのひとつです。このように代数学で重要な役割を果たすガロア理論は、現代数学の扉を開くとともに、20世紀、21世紀科学のあらゆる分野に絶大な影響を与えています。しかし、ガロアの業績の真実と重要性、先見性は当時世界最高の研究機関であったパリ科学アカデミーを初め、カール・ガウスやオーギュスタン・コーシー、カール・ヤコビと言った歴史に名を残した同時代の大数学者達にさえ理解されず、生前に評価されることはありませんでした。群論の基礎概念とも言える集合論がゲオルク・カントールによって提唱され、ガロア理論へと通じる数学領域が構築されるのでさえ、ガロアによるガロア理論構築の50年も後のことです。
1983年、アメリカの男性ボクシング世界ヘビー級王者、ジャック・デンプシーが病により87歳の生涯を閉じました。ジャック・デンプシーはリングネームであり、本名はウィリアム・ハリソン・デンプシー(William Harrison Dempsey)。「マナッサの殺し屋」、「拳聖」「拳の英雄」などの異名を取りました。プロとしての生涯戦績は、83戦 62勝 50KO 6敗 9引分け 6無効試合。
1993年、漫才師、漫談師、放送タレントの西条凡児が急性心不全のため78歳で死去。4年前から体調がすぐれず入院していました。毒舌と鋭い社会風刺を売り物にした漫談で知られ、戦後の民間放送誕生初期に人気を博しました。1935年に浪華商業の同級生だった九条芸児と組んたコンビ「九条芸児・西条凡児」として、千日前の寄席「小宝席」でデビュー。大学専門部中退の凡児のキャラクターを前面に出した「インテリ漫才」を売り物としましたが、その後コンビ揃って徴兵。凡児自身が述べ3度の召集を受けているあいだに、相方の芸児が戦病死したため、凡児は復員後の一時期、一枝という女性と組んだこともありました。1955年、新日本放送(NJB、のちのMBSラジオ)の『凡児のお脈拝見』『素人名人会』(このうち『素人名人会』は1960年からテレビ番組となります)の司会に抜擢されました。『凡児のお脈拝見』は「こんな話がおますんや……」の決まり文句で始まる時事放談番組で、博識ぶりを活かした幅の広いトークが話題を呼び、同フレーズは流行語となりました。この時期はNHKにも朝日放送にも出演していなかったことから、事実上NJBの専属のような状態でした(当時の関西は芸能プロダクションでなく放送局に専属する形式が一般的でした。ただし、凡児は専属契約を結んでいなかったとされます)。『おやじバンザイ』(朝日放送テレビ、1964年)の司会で知名度が全国区となりました。この番組は私も記憶があります。出場者に「おみやげおみやげ」と言って、スポンサーからのプレゼントを与えていました。1970年10月、自身の事務所(自宅とも)近くの建設工事の騒音をめぐって3社の建設会社に「テレビでしゃべる」と脅し、計90万円を受け取ったことで、恐喝容疑で書類送検された(翌年に不起訴処分)トラブルによる刑事事件が明るみに出て、その影響でメディアから離れました。1972年4月に『凡児の娘をよろしく』(関西テレビ)の司会として復帰。往年の毒気は影をひそめ、1979年に同番組が終了すると、メディアの第一線から退きました。
2006年、アメリカの天文学者、レイモンド・デイビスが91歳で死去。2002年、小柴昌俊とともに「天体物理学への先駆的貢献、特に宇宙ニュートリノの検出」によりノーベル物理学賞を受賞。
2008年、タレント、ドラマーのウガンダ・トラが「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳没。永年の鯨飲馬食による肝臓病、糖尿病、心臓病、脳梗塞などの悪化が懸念されていましたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発表されています。本名、佐藤信一郎(さとう しんいちろう)。『ビジーフォー』元メンバー。容姿が似ていたウガンダのイディ・アミン元大統領に由来。1971年、R&B仲間の高田裕三・宮本典子らと、日本のソウル・ファンクの草分け『スリーチアーズ・アンド・コングラッツレイションズ』に加わり、米軍キャンプや都内一流ディスコの生バンドとして腕を磨いていました。1977年、元ザ・クーガーズの島田与作が立ち上げた『いそがしバンド』に、盟友の高田"ぐっち"裕三、スリム冬樹と共に参加し、トラ佐藤(後にウガンダ)の名でドラムとボーカルを担当。『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(NET系)にセミレギュラー出演し、童謡コーナーではキャンディーズと共演しました。
1979年の『金曜娯楽館』(NTV系)へのレギュラー出演と前後して『ビジーフォー』に改名。クレイジーキャッツからザ・ドリフターズへと続く、ナベプロ伝統の技巧派コミックバンドとして期待が掛けられましたが、余興だったはずのものまねで売れてしまいます。1982年には、フジテレビ「ひらけポンキッキ」の挿入歌として使用された『やせろ!チャールス豚3世(読み:チャールストン)』で踊り子役を務めます。巨体ながら、軽やかなステップとキレのあるダンスを披露。同時期には、フジテレビ系列にてオレたちひょうきん族にも初登場。1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを脱退。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 (テレビ朝日系)、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』(TBS系)などに出演。 『俺たちひょうきん族』でマイケル・ジャクソンの物真似から、顔を真っ白に、唇を真っ赤に塗りたくって変身したのはインパクトがありました。
2012年、歌手の尾崎紀世彦が肝臓癌のため東京都内の病院で死去。69歳没。1971年、「また逢う日まで」「さよならをもう一度」「雪が降る」「愛する人はひとり」が次々とヒット、出身地・茅ヶ崎ではワンマン・ショー、大阪にて初のソロ・コンサートを開催。2枚目のシングル「また逢う日まで」が売り上げ100万枚を突破、第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞をダブル受賞。日本レコード大賞を受賞した際に両手でVサインを、さらにトロフィーを持ち上げて笑顔でVサインをしたパフォーマンスは、今もテレビで流れる名シーンです。同年、『第22回NHK紅白歌合戦』に白組トップバッターとして初出場。翌1972年、「ふたりは若かった」「こころの炎燃やしただけで」「あなたに賭ける」とヒットを重ね、「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」のカヴァーで、紅白歌合戦に連続出場。1990年にも『第41回NHK紅白歌合戦』に出場しています。しかし私にはこの人と布施明だけはどうにも too much。
2017年、小説家の杉本苑子(すぎもと そのこ)が91歳で死去。1952年、「燐の譜」で『サンデー毎日』の懸賞小説に入選、選考委員である吉川英治に師事。吉川死去の翌年、『孤愁の岸』で第48回(1962年下半期)直木賞を受賞。以後、歴史小説家として活躍。また、一般向けの歴史書も記しています。1985年に、『マダム貞奴』および『冥府回廊』を原作とするNHK大河ドラマ『春の波濤』が放映されました。作品が舞台演劇として上演された数も多いです。生涯独身であったため、自作の著作権を含む全資産について、居宅を構えた静岡県熱海市へ寄贈する意思を示していました。

本日の忌日もこれまで。
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